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なにも知りません

「大人」になる

「ジャニーズJr.公式エンタメサイト」と銘打たれたISLAND TVというサイトには、所属するジャニーズJr.たちのプロフィールが確認できるページが存在する。昨年初頭、サイト自体の大幅リニューアルに伴い、全員のアーティスト写真やプロフィール文面も一新され話題になった。

プロフィールの項目には「将来の夢」欄が設けられており、「CDデビューすること」「ファンの皆さんを幸せにすること」など、アイドルたちの大小様々な夢がめいめいに記載されている。矢花くんの今の「将来の夢」欄には「日本を代表するベーシスト・クリエーターになる」とある。彼にしか書けない素敵な夢だと、"今は"思っている。

サイトのリニューアル前、彼はここに「『大人』になる。」と記載していた。わたしはこれがどうにも彼らしくて好きで、リニューアル時はこれが消えてしまったのが悲しく、同時にそこはかとない不安を覚えた。

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当時のスクショ

 

彼の創作の源泉にある、「己を解放し、既成概念を打ち壊したい」という思想。パフォーマンスの建前だけではどうにも割り切れない、癇癪のようなリミッターの外れた咆哮。彼の敬愛するロックンロールの精神にも通ずるこの欲求、渇望、衝動は古くから「少年たちの、前時代的な『大人』に対する反骨精神」という形で形容されてきた。それが「『大人』になる」ことで失われてしまうのではないか、と恐れていた。

鉤括弧で括られた『大人』。一般名詞につけられる鉤括弧には、強調のほかに皮肉の意味も汲み取れる。これを掲載していた2021年以前、たしかに20歳という、世間的に「大人になる」節目を跨いでいた矢花くんだが、その時彼は『大人』ではなかったのだろうか。この「『大人』になる。」という夢を取り下げて新たにアーティストとして順当な夢を掲げた今の彼は、果たして『大人』になれたのだろうか。

 

 


少し話は変わって、『アイドリッシュセブン』というアイドルプロジェクトがある。2015年にリリースされたアプリゲームを中心に、アニメ、ライブ、各種コラボ等々の展開を重ね8周年を控えた今年、ライブ映画が公開された。本当に素晴らしい出来なのでアイドル全般が好きな人は是非一度観てほしい。

もちろん全編素晴らしく、語るべきことが目白押しなのだが、ここでは、劇中で披露されたTRIGGERというグループの新曲『BEAUTIFUL PRAYER』に焦点を当てたい。


BEAUTIFUL PRAYER

BEAUTIFUL PRAYER

  • TRIGGER
  • アニメ
  • ¥255


TRIGGERはプロジェクト発足時から、メイングループのIDOLiSH7と対をなすライバルグループとして活動してきた。明るくかわいくわちゃわちゃ、逆境でもひたむきに頑張る姿を見せることで人々の心を掴んできたIDOLiSH7とは対照的に、大手事務所のプロデュースで順風満帆にデビューを飾り、ショーマンとして裏の努力や苦悩は見せず、ただファンのためにステージの上でのエンターテイメントを追求することに身を捧げる、プロ意識の極めて高いグループだ。

そんな彼らもこれまで常に完璧ではいられなかった。スキャンダルを捏造され、一時事務所を辞める事態になるまで追い込まれた。テレビの仕事を干され、精力的にライブハウスを駆け巡った。それでも自分たちを信じてついてきてくれるファンを思って、雨の中涙を流した。そのたびに、高潔な誇りやプライドを胸に抱いたまま、ダイヤモンドのような「つくりもの」としての無機質な硬度だけではない、血肉の通ったしなやかな人間らしい強さを獲得してきた、TRIGGERとはそんなグループだといえるだろう。

これまでもその波瀾万丈なキャリアに合わせて、さまざまな楽曲を発表してきたTRIGGERだが、『BEAUTIFUL PRAYER』はノリの良いディスコファンク調のダンスナンバーで、強いメッセージ性が前面に出た他のグループの新曲群の中でも一線を画す。クラップやコールでライブ本編の中でも特に盛り上がるシーンであり、ファンの間でも公開時から話題と人気を集めている。オシャレなサウンドに合わせシックな黒の衣装で一糸乱れぬダンスを披露する3人の姿は、ジャニーズを齧った経験のある人間なら少年隊などを彷彿とさせるかもしれない。

しかしこの曲もまた、ただサウンドとしてノリ良く楽しいだけではない、力強く生きるためのメッセージを歌った曲なのである。

 


以下は作詞曲を担当したShinnosuke氏が、ムビナナ公開当時に個人Twitterに寄せた文章である。


 

大きな話だと地球規模での災害や戦争などから、はたまた近所で起きた小さい事件や事故など

色々含めて悲しいニュースや辛い話に胸を痛めてきたのも事実ですし、僕の身近でも大切な方が亡くなったりもしたので生きる事の意味や難しさ、逆に「幸せとは?」とか色々日々思う事も本当に沢山あって。

(中略)

上記のような「生きることについて」だったり、もっと「地球を俯瞰して見た時」に考えるような事など...

結果的にそれって至極当たり前の事にしかならなくなってきちゃうんですけど。

まぁそんなような、人としての根本的な想いというか考えというか意志みたいな物をどうにか歌詞に落とし込みたいな、と思って書いたんです。


(中略)

生きてる以上、大人になれば色々と痛みを知らないとダメだと思うんです。

物理的な怪我とか病気とかって意味ではなくて。

知らなくて良い(=済む)のは子供の時だけで良くて。

なので、先述のようにこの曲って聴いてるだけだと楽しい・カッコイイ曲だと思うんですが、実は結構「悲しさ」や「愛い」を歌っている曲でもあるんです。

(中略)

あと、楽曲タイトル「PRAYER」の意味、「L」ではなくて「R」 なので「祈り」という意味なんですが。

『美しい祈り』

「PRAYER」って一つの単話でもう一つの意味もあって。

発音が少しだけ変わるんですけど、「祈る人」という意味にもなるんですね。

なのでTRIGGER の3人自体の事を指しているタイトルでもあって。

 

 

Uhhh wanna B together

不条理な毎日を

少しでも誰かが笑顔でいられるように

祈ろう Uhh Yeah

TRIGGER『BEAUTIFUL PRAYER』歌詞より抜粋

 


アイドルの歌や言葉の数々は祈りだ。祈りとは、人が人のために行うものであり、祈り手が祈られる対象と同じ人間であるからこそ価値あるものだ。アイドルが我々と同じようにありふれたことで泣き、笑い、人として生きているからこそ、彼らの祈りは切実だ。

 


アイドルたちにドラマチックなヒストリーがあるように、同じ時空、同じ世界にわたしの生活、人生がある。アイドリッシュセブンを好きでい続けたこの8年近くの間に、わたしは引きこもりになり、高校を辞め、バイトを始め、高卒認定試験を受けて受験勉強をし、大学に入学し卒業し、就職して社会人になった。わたし自身も、今やすっかり『大人』になった。

『大人』になるにつれて社会を広く見られるようになって、ただアイドルが与えてくれるエンタメを楽しみながらのんびりと生きていくだけでも、否が応でも社会や政治やジェンダーについて考えざるを得ないことを思い知った。いくらアイドルとはステージの上でのみ像を結ぶ虚構だと言い張っても、そのステージが建つ土壌が腐っていてはステージは崩れてしまう。崩れゆくステージの上のアイドルの"中の人"たちは、ステージもろとも腐った地面に叩きつけられて(比喩ではなく)死んでしまう。

巷では「嘘を貫くアイドルこそが完璧で究極」というような歌詞の曲が異常なほどバズっているが、アイドルを切実に応援した経験のある人ならそれがいかに持続不可能でままならないことかよく理解しているはずだろう(まあだからこそ、フィクションの物語から生み出されたこの曲に願望を託したいのかもしれないけど)。

アイドルを仕事としてやっていく人も、アイドルを応援する人も、もうそろそろ「アイドルとは嘘でつくりものだから」を免罪符に現実から目を背け続けるのは難しくなってきたんじゃないか。「彼らとわたしたちは住む世界が違うから」なんて、とてもじゃないけど言えなくなってきているんじゃないか。彼らもまた、我々と同じ社会の困難に道を阻まれ、歯を食いしばって、なんとかこの地獄のような現代日本を生き抜いている人間であることは、2020年に痛いほど思い知ったんじゃないのか。

アイドルも我々と同じように歳をとって、やがて命を終える。アイドリッシュセブンのアイドルたちは設定上、数字の上では歳をとらないが、全員がそれぞれに自らの問題に向き合い、精神的に大きく成熟していくさまが描かれる。現実のアイドルにはそんな明確な「物語」はないけど、皆日々将来への不安を抱えながら、己の感情とどうにか折り合いをつけつつ目の前の仕事に取り組んでいるはずだろう。アイドル業界という特殊な環境が生む固有の生きづらさはもちろん無視できないが、だからといってその環境下に置かれる人たちをむやみに神聖視、あるいは怪物視するのではなく、働く人間同士として、もっとありふれた共感で寄り添うことはできはしないか。

 


痛々しいほどの自我を開示してくれる矢花くんが愛おしく、それを愛おしく思う自分が恐ろしくてしょうがなかった。その反動から、流行りの歌のように煌びやかな嘘で武装して、本当の自分は見せないことを美学とするアイドルのことを羨ましく思ったり、自分が好きになってしまったアイドルがそうではなかったことに憤りをぶつけたりしてしまうこともあった。

自分が社会人になってようやく、事はそう簡単ではないことを思い知った。仕事における自分と本来の自分を完璧に切り離すということは、よほど自分を強く持てる人でないと本当に、本当に心が死んでしまう。かと言って誰彼構わず自分をひけらかすのもまた、どんどん自分が奪われてすり減っていくような感覚を覚える。わたしたち──アイドルも含めて人間全般は、揺らぐ水面を浮き沈みするように、つくられた自分と本来の自分を行き来しながら、少しでも楽に呼吸ができる場所を探し続けるしかないのだ。

きっと矢花くんは、己の全てをもって、それを体当たりで、リアルタイムで実践する様子を見せてくれていただけなのだ。野ウサギみたいに跳ね回るベースも、がなりながら歌うラブソングも、浮き沈みの激しいブログも、全部。

 

振り返れば
僕も色々な事を感じ、喜びや、幸せ
時に 苦しみ、立ち直りながら、

今日ここまで来たような気がします

 

みなさんもきっと
本来の"欲望"を
学校や会社といった
"社会"で塗りつぶして、
"大人"になるにつれて
塗り重ねてきたと思います


それでも、繊細で
何度も割れてしまう表面を
上から塗って、
美しい自分であるフリをして、

そうしていくうちに
本来の自分が自分で塗った殻から
出られなくなったり、
どうしたらいいかわからなくなる


人は何をしていても
人以上にも、人以下にもなれない
誰しも同じ生き物なんだと思います

 


だから、

頑張らなくていいから

 

自分をこれからも生きていきましょう


そして、
殻の中の自分が
いつでも自由に外に出られるような
扉をつけてあげましょう

 


僕もそうしてみようと思っています

 

 

何事も全てを言って
所構わず吐き散らせばいいわけじゃないけど

でも
そんな相手やそんな日があっても
あってもいいもんだなって思います

2023/05/31更新 Johnny's web「異担侍日報〜侍ふ。〜」水曜vol.109「独白」より抜粋

 


わたしはわたしのペースで、そして矢花くんは矢花くんのペースで、それぞれでゆっくり、自我と建前の折り合いを探してきた数年間だった。きっと矢花くんにとってわたしは物分かりのいい理想のファンではなかったし、わたしにとっても矢花くんはいつでも理想のアイドルではなかった。今でも矢花くんの言動で到底理解できないことは多々あるし、万一この怪文書を矢花くんが読むようなことがあれば、向こうも同じように思うことだろう。それでも、同じ時間に同じ世界を生きながら、共感よりももっと淡い、漠然とした次元で「そうだね、わかるよ」と思い合えることがひとつでもあるのなら、一番星だなんだと完全に突き放してしまうよりは、人と人として有機的な関係性に一歩近づけるんじゃないか。それはそれでひとつ、アイドルとファンの関係性としては相当祝福されたものになるんじゃないか。

 

 


矢花くんの制作した「Banana」について、わたしは昨年以下のように記した。

 

世界にも自分にもヤケになったりニヒルになったりせず、真正面から清濁併せ飲んだうえで正々堂々立ち向かってやろうという闘志のようなものが「Banana」からは迸っている。それも追い詰められて闘うしか道はない、というニュアンスではなくて、自ら迎え撃つ余裕すら感じられるポジティブな闘志。どんなに絶望的な状況においても飄々とした笑みを携え、どこまでも精緻に計算された"遊び心"を以って音を奏で、ステップを踏む様を、「アイドル」と呼ばずしてなんと呼ぶだろう。I Know.から丸2年をかけて見るからにしなやかに強くなった。今の矢花くんが眩しくてならない。


これは昨年9月に公開されたセルフカバー版*1のみを聴いた上で書いた文章だが、「Banana」はこの後も7 MEN 侍全員による演奏でサマステ、単独Zeppツアーと繰り返し披露され、今年はついに歌詞を乗せてリアレンジされた「B4N4N4」がサマパラで初披露となった。個人的には矢花くんのソロコーナー枠を借りたひと夏限りのプロジェクトだとばかり思い込んでいたが、7 MEN 侍的にはすっかりグループの持ち曲の認識だったようでとても嬉しい。

作者本人が「口当たりのいい狂気」「魂は捨てずにキャッチーな曲を作る挑戦」と形容するように、「Banana」は矢花くんが公開してきた楽曲の中ではずば抜けてメロディアスで盛り上がりやすい。「売れ線を狙った」というのも大いに理解できる。しかしこの理解はwoofer887──作曲家・矢花黎の軌跡を辿ってきたからこそ出てくるものであり、アイドルグループ・7 MEN 侍の楽曲としてライブで披露されることを加味すると、作曲者自身のエゴに端を発するであろう複雑さや異物感を無視できなくなってくる。

初披露となった22年のサマステは、7 MEN 侍としては珍しく、演出の多くをメンバー以外のスタッフに外注した公演であったそうだ。良くも悪くも"ジャニーズらしい"印象を受けるライブの中盤、赤黒い照明の中から原型を留めないほど歪んだベースを呼び声に始まる演奏は、驚異的なスピードで演奏スキルを磨いてきたメンバーであってもついていくのがやっとといったところだ。しかしこれもまた「全員が苦しみながら、狂いながらがむしゃらにやってる姿を演出する為にわざとしんどく作った」という矢花くんの思惑が反映されている。今にも転げ落ちてゆきそうなビート。止まるべき所で止まらない音。完全に原型を失ったメロディー。

ジャニーズJr.としてそれなりのキャリアと地位を築き、すっかり安定感の伴いつつあるパフォーマンスの中で、この曲だけが異質、異形だ。それは祈りと呼ぶには生々しく地に足のついた、紛れもなくこれまでと変わらない矢花くんの剥き出しの自己顕示欲そのものである。それがバンドパフォーマンスという逃げ場のない衆人環視の中で、メンバー5人を、7 MEN 侍を、果実の表皮を覆う黒斑のように、ひたひたと侵食していくようであった。

そして今年の夏、留まらぬ彼の欲望は彼らの"声"をも乗っ取った。3年前、同じステージの上で1人吐き連ねるように歌われた矢花くんの言葉たちは、今度は6人の声で、犯行声明のような力強さと不敵な訴求力を持って戻ってきた。何も変わっていない。矢花くんはずっと、世界を、人間を愛しているからこそ、己を投げつけるかのようにして語りかけている。

それに今では、抱き込むようにそれに付き合ってくれる仲間を5人も得た。矢花くんにとって7 MEN 侍とは、無茶苦茶な自己をどうにか秩序立てて世界と繋がるための殻でもあり、自由に息をするために顔を出す水面でもあるのかもしれない。『大人』になったって、こんなにも自由で傲慢なやり方で自分を解き放つことができる。何人たりとも、彼の中に轟く"何か"の息の根を完全に止めることはできない。そういう意味で、矢花くんと7 MEN 侍がともに歌い続けてくれることは、わたしにとって大いなる希望だ。

 


だからわたしも勝手に、2人といないあなたへのありふれた共感とともに、毎日を生きていく。これからも、一緒にそれぞれの世界を見つめて、一緒に『大人』になっていきましょう。

矢花くん、23歳のお誕生日おめでとうございます。

 

 

 

甘蕉は劇薬

 

矢花黎さんこの夏渾身の新曲「Banana」、皆さんもう聴かれましたか?ISLAND TVって会員登録不要無料コンテンツなのに相変わらずアクセスの悪さヤバいよね。オタク以外絶対知らんもん。この前坂本昌行さんすらYouTubeって言ってたよ。

 

前回の記事で書いた通り今夏のライブは不参加だったため現地で聴くことは叶わず、かと言って動画が上がった以降も初見をどのタイミングにしようか悩んで数日が経ってしまった。結局、今日こそは本当に精神がだめかもしれない、と思った通勤途中の地下鉄の中で、電車の走行音にも車内アナウンスにも負けないように最大音量にして聴いた。下手にかしこまって腰を据えて聴くよりは、ありふれた生活の中に境目なく音楽を紛れ込ませるくらいを、矢花くんなら望むのではないかとなんとなく思った。かつて「音楽とは我々の一番身近にある芸術だ」と語っていた彼の言葉を思い出した。奇しくもその日は水曜日だった。

 

2020年の夏に見た「I Know. - 7 MEN style -」の衝撃はおそらく忘れることはない。

ご本人曰く、この曲のコンセプトは「破壊的なグランジロック」であり、「"ロックとは自分を解放することじゃないか?"」という「"僕なりのロック"を表現するサウンドを意識し」て制作されたそう。上の動画はインストver.だが、ライブ公演で披露されたものは歌詞がついており、これまた「元々の歌詞だと少し攻撃的過ぎた部分があったので」「マイルドに書き直」されたのだとか。そんな歌詞には彼の持つ人間や社会に対するアイロニカルな眼差しが濃密に詰まっている。

この頃になってようやく納得が追いついてきたが、わたしはずっと勘違いをしていた。ひとつは、「現役音大生」の肩書きをものにする矢花くんならば、自身のすべてを音楽で語り尽くしてくれるであろうということ。もうひとつは、社会、慣習、アイデンティティ、その他自分にかかわるすべてに漠然と嫌気が差していて、そのすべてを破壊したくて叫びを上げているということ。そしてその点においてわたしと矢花くんは繋がっており、矢花くんはわたしの延長線上に存在するということ。

「ジャニーズでもここまでぶっ飛んだことやっていいんだ!」というカルチャーショックが大きかったことも影響し、I Know.には当時の矢花くんのすべてが込められているのだと思い込んでいた。だから、この曲に惚れ込み、この曲を解釈し続けることこそが、彼のファンを名乗る資格のようなもので、他の事象は枝葉に過ぎないとさえ思っていた。「現役音大生アイドル」という稀少な武器を持つような人であるなら、音楽を心から愛し、音楽にすべてを捧げ、凡人のように余計な御託を並べずに、自分の思想を全部音楽に乗せて、言葉以上に歪みの少ない純粋な形で表現することができる、そういう人であるに違いないと思っていた。でも、きっと彼は音楽家としてそこまで純粋ではない。純粋でいられない。

その「純粋でなさ」は、もちろん「ジャニーズアイドルなのにバンド」という今の彼の置かれた立場によるものでもあるし、彼の経歴にも表れているといえるかもしれない*1。しかしその「純粋でなさ」の核を成すものとして、彼の生来の性格に依拠するであろう、怪物的なまでの自意識の強さがあるような気がしてならないのだ。

彼が己を語るには、音楽だけでは足りないのだ。矢花黎というアイドルと、矢花黎という人間を形容するには、音楽という器は小さく儚く、純粋すぎるのだ。彼にはもっと具体的で、無秩序で、明け透けな言葉が必要で、無骨で無神経で、でも酷く怯えたように一つずつ置かれる言葉たちの跳ね返りで自分がズタズタに傷つきながらも、それでも言葉にせずには生きていかれない人なのだ、というのが、1年以上の間彼のブログと向き合ってきたりこなかったりして理解したことである。

もうひとつ、矢花くんの言葉を見聞きしていると、すごく世界を信用しているな……と感じることがある。I Know.ではあんなにも厭世的な、世の中をせせら笑っているような歌詞を書いていたのに、信じられないくらいストレートな言葉で自分の感情を言い表している時もあれば、肝心なところで含みを持たせて解釈を読み手に委ねてくる時もある。どちらの態度もその言葉の受け取り手のことを無条件に信用していないと出てこないように思う。だからこそファンから辛辣な反論がダイレクトに返ってくることもままあるし、それらもすべて真正面から受け止めて突き刺さってしまう。それでもまだ話すこと、書くことを諦めない。どれだけ不安定でも傷だらけでも、丸腰のままで彼の言葉は我々の前に姿を表す。母親しか拠り所を知らずすべてを預けてくる子どもみたいだ。

だから矢花くんはこの世界を愛し、世界からも愛されてここまで生きてきたのだなと思う。わたしは自分の生きている世界に対してもうそんな澄み切った眼差しは向けられなくなってしまったから、その点において、わたしと矢花くんは完全に違う人間なのだという事実を苦しいほどに突きつけられることになった。癒着した歪んだ信仰心を引き剥がすのに1年近く必要としてしまったけど、今はそんな矢花くんのことを素直に愛おしく素晴らしいことだと思えるようになったのでこれでよかったんだろう。

そうしてさまざまな矛盾を現在進行形で抱え、変容させながら、きっと彼は今日も音楽に向き合っている。こっちからすればやっぱり世界はめちゃくちゃだしクソったれだし地獄だし毎日気が狂いそうだし生きにくくて仕方なくて、向こうも少なからずそう思いながら歪に生きている自覚はあるようだけど、矢花くんはそれでも今の自分とそれを取り巻く世界を好きでもあるんだろうと思う。「Banana」間奏部分でゆるいフォルムと耳をつんざく人工的な不協和音で姿を現す電子楽器・オタマトーン。彼の内にあるそれらの鬱屈した混沌と、いかにも「アイドル」らしい外界に向けた愛嬌がないまぜになった、アイドルらしくてアイドルらしくない、人間臭くて人間離れした、どこにも属せない何かの象徴であるかのように感じられる。

世界にも自分にもヤケになったりニヒルになったりせず、真正面から清濁併せ飲んだうえで正々堂々立ち向かってやろうという闘志のようなものが「Banana」からは迸っている。それも追い詰められて闘うしか道はない、というニュアンスではなくて、自ら迎え撃つ余裕すら感じられるポジティブな闘志。どんなに絶望的な状況においても飄々とした笑みを携え、どこまでも精緻に計算された"遊び心"を以って音を奏で、ステップを踏む様を、「アイドル」と呼ばずしてなんと呼ぶだろう。I Know.から丸2年をかけて見るからにしなやかに強くなった。今の矢花くんが眩しくてならない。

正直グループの方向性・音楽性としてもトライアンドエラーの時期なんだなというのは強く感じていて、多くのファンから求められるジャニーズアイドルらしい振る舞いや"ジャニーズ"というブランド自体のプレッシャーとのバランスの取り方に苦心している様子は幾度となく目にしたけど、矢花くんのあくなき自己表現への欲求が何一つ死んでいないと今回で心の底から確信できたことが嬉しかったし、それがこんなにも強かでかっこいい形で昇華されるとは思わなかった。矢花くんは数ヶ月前にブログで「自分の伝えたいことを他者に届けるためにはそれなりの自己演出が必要」というような話をしていたけど(個人的には当時あまり腑に落ちなかったブログではあったんだけど笑)、今になってああここに繋がってたのかもしれないなぁと思ったり。

そういう最近の矢花くんの姿を見ていると、ああわたしも生きにくいなりに折り合いつけてなんとか人生を頑張っていかないといけない、と素直に奮い立たされるし、アイドルを好きでいることの醍醐味ってこういうことだったんだなと思う。形はどうあれアイドルに極力干渉したくないスタンスのわたしですが、矢花くんが矢花くんのまま"矢花黎"を知らしめるためにいつも死に物狂いでアイドルやってくれているだけで、励みになってるオタクがここに1人いるよ〜って言うのはフワッと伝わるといいかもと思う。

矢花くんが心ゆくまで自分を解放して、矢花くんの音を、声を、満足いくまで聴き入れてもらえる世界に早くたどり着けるといいな。そして願わくば、その時までわたしも矢花くんのいる世界の中にいて、それを聴き届けられるといいな。ひとまず初めての単独ライブ、本当に楽しみにしています。

 

 

 

 

 

 

*1:ジャニーズ事務所の入所オーディションを4回受けているという話は今や彼の鉄板エピソードとなったし、「ジャニーズなのに?」と言われることの多い楽器演奏を始めたのはジャニーズJr.として活動を始めた以後のことだそうだ。

わたしの葛藤

13日にライブに行く予定だったので、その感想を自担(便宜)の誕生日祝いブログと代えさせていただこうと思っていたのだが、自分がコロナにやられてしまい行けなくなったので、ライブも誕生日も全然関係ない話をします。エ〜ン、、、

 


「アイドルについて葛藤しながら考えてみた」という本を読みました。

 

 


期待して買ったけどそれを裏切らない本当にいい本だった〜……アイドルオタク当事者としてそうだよな〜と共感するところも、まったく知らないジャンルの実情について初めて知ってそうなんだ……となるところも多々あってどの章もぐいぐい読んでしまいました。

とはいえ、どの論考も「葛藤」の足がかりを呈示するもので、「葛藤」の終わりにたどり着く答えやヒントが書かれているわけではないので、やはり自分の「葛藤」は自分で言語化していくしかないな〜という気持ちもより強くなりました。

ちょうどこの本を読み進めていた今月初頭、好きなアイドルグループのメンバーの熱愛スキャンダルが発覚しました。タイムリーなので、というのも不謹慎な話ですが、アイドルに課せられた恋愛規範を基軸として、自分のオタク当事者としてのアイドルとの向き合い方みたいなものを少し考えたので、この機会に書き起こしておこうと思います。

 


好きなアイドルが「燃えた」

あまり詳しく解説するのも蒸し返すようでアレですが、好きなアイドルグループのメンバーは、どうやら仕事を通じて知り合った2人の女性と関係を持っており、そのうちの1人と近距離で屋外にいるところを週刊誌に撮られてしまった。また、週刊誌記事では、おそらく彼らのプライベートなSNSアカウントに掲載されていたのであろう写真なども「知人提供」として掲載されていた。

報道を見た瞬間は「ついにきたか」という気持ち(もちろん好きなアイドルには誰もこんな目には遭ってほしくなかったが、出るとしたら業界内外問わず人との関わりが多そうな彼が可能性として高いんじゃないかな……とはうっすらと思っていた)でしたが、翌日からは沸々と彼に対して怒りが沸いてきて、その次の日から今まではずっと漠然と悲しい気持ちを持て余しています。

わたしが彼に対する怒りの感情を持ったのは、おもに「ライブ公演を控えている身で、しかも前回公演では自身の体調不良で公演期間の大部分が中止になった経験があるにもかかわらず、感染対策も徹底されていなさそうな状態で、人と外を出歩いているのはどうなんだ」という点に限ってである。わたしは彼に恋人がいることも、その関係がいわゆる「二股」などのように世間的には好ましく思われないような形態であることも、それが週刊誌を通じて我々オタクに知られてしまったことも、わたしは一切咎める気にならない。

案の定というか、インターネットにざっと目を通していた限りでは、上記のような恋愛関係にまつわる点について、「デビューを目指す若手アイドルであるならば、(異性の)恋人を作っている場合ではない」「恋人がいるのは構わないが、二股はアイドルとして印象がよくないのですべきではない」「恋人がいたとしても、やはりアイドルとして印象がよくないので公にするべきではない、公になる可能性が少しでもある行動は慎むべき」という価値観を、言及するまでもない絶対的な前提として、厳しい言葉で批判が噴出していた。所属事務所が良くも悪くも伝統や慣例を重んじる歴史ある超大手であるためになおさら、「恋愛禁止」などの暗黙のルールが権威を握っているのをひしひしと肌で感じている。以下、わたしが見かけたスキャンダルが出たアイドルへの非難として使われる常套句にできるだけ丁寧に抵抗したい。

 


アイドルが「燃えた」のは本当にアイドルのせいか?

アイドルに課せられている"異性愛主義を前提とした"「恋愛禁止」システムについては、「アイドルについて葛藤〜」の中でも複数の著者が言及していました。しかしながら、このシステムを決定的に定義づけることは、どの章でもなされていません。それでも、界隈内での暗黙的了解として、「アイドルに異性の恋人がいるべきではない」という風潮が未だ根強く存在しているのは、少しでもアイドルに触れたことのある人間なら感じられることかと思います。先日NHKで放送されていたドラマ「アイドル」は戦時下に活躍したアイドルについて描いたものでしたが、ここでも恋愛禁止ルールについては「この頃からあるにはあった」という描写のみで、いつから、どのような理由で存在していたかは語られていませんでした。

「アイドルについて葛藤〜」序章で言及されているとおり、「恋愛禁止」ルールとは「労働者個人のプライベートに立ち入って人権を侵害する」ものであるとわたしも考えます。我々がそうであるように、アイドルがプライベートで誰と、何人の人と、どのように関係を結ぶのかは自由であり、それを公表する/しないも当人の自由です。

それから「彼女がいることは構わないが、二股は人としてよくない」という言説について。わたしたちは、他者と他者の関係性を、部外者である自分の物差しで「よいもの」と「よくないもの」とに明確に区別しジャッジすることはできない。わたしもあまり詳しくないので「ポリアモリー」などでググっていただくことをお勧めするが、複数の交際相手が存在すること自体はまったく悪ではなく、当人同士で合意が得られているのであれば、十分に「よい」かたちで成立しうる関係性といえる。まあ今回のケースはちょっとそうは見えないような気もしなくはないですが、そうだったとしてもそれは当事者同士で必要に応じて話をつければ済むことであり、どちらにせよファンである我々が口を出す権限はない。

「危機管理能力がない」、あるいは「プロ意識がない」。これもよく聞かれるフレーズである。ここで言われる「危機管理能力」とは何か。おそらく「スキャンダルがすっぱ抜かれる」という「危機」を起こさないよう己の生活を「管理」する「能力」を指すのだろう。その「危機管理能力」は本当にアイドルにとって必要不可欠なものなのだろうか?今回の事態は彼の「危機管理能力」不足が招いたものなのだろうか?

「危機管理能力」の実践例として「(特に恋愛などの)スキャンダルに発展しやすい自分のプライベートな部分を公に見せない」「(特に恋愛などの)スキャンダルとして話題にされそうな物事にそもそもかかわらない、ないしはスキャンダルに繋がる可能性がある人間関係を持たない」などが挙げられる。

前者について、彼がプライベートな要素を切り売りするコンテンツを少なからず見てきた身としては、彼がこれを実践できていなかったとはまったく思わない。少なくとも、公式で発信される情報を見ている限りでは、彼はアイドルとして開示できる自分のプライベートをかなり自覚的に線引きし、コンテンツとして提供してくれるアイドルだと感じているし、その線引きの仕方で不快感を覚えたこともなかった。ではなぜ今回こんなことになったかといえば、スクープ欲しさにアイドルのプライベートを追いかけ回す週刊誌が悪いとしか言いようがない。「芸能人なんだから週刊誌に追われるなんて当たり前、撮られてネタになるような行動をアイドル側が慎むべき」という批判も根強いが、それこそプライバシーの侵害だと思う。

この批判が想定されて行われるのがおそらく後者の実践になるのだろうが、アイドルのプライバシー侵害のみならず「アイドルは業界内外問わずさまざまなものに触れ、多くの人と出会い、その経験を表現活動に生かしていってほしい」というわたし個人の思想としても食い合わせが悪いので、あまり必要だとは思わない。「アイドルについて葛藤〜」第8章でも、表舞台に立つ者が「普通」の「生活」を犠牲にすることについて言及されているように、好きなアイドルに本人の望む限り長く活動を続けてもらうために、私生活のすべてをアイドル活動のために捧げすぎないでほしい。アイドルの私生活をとりまく人間関係にも、アイドルだからという理由で制約が設けられることはあってはならないと思っている。仕事のために大学の友人と1人も連絡先を交換しなかったアイドルや、旧来の友人とも親を介してしか連絡を取らないアイドルの話を聞いたことがあるが、それを「プロ意識が高くてすごい」と手放しに称賛してよいものだろうか、と今でも考えている。

また、今回のケースもそうだったが、週刊誌のスクープ記事に掲載される情報は「知人提供」とされるものが多い。これに対して「人を見る目がない、そんな信用ならない人と付き合いがあることに失望する」というような意見も散見されたが、アイドルでなくとも、人間はそんな簡単に「絶対に信用できる関係」を築けるものだろうか?たとえば知人の手によって本当に週刊誌に情報が売られてしまったとして、その知人との関係性が「信用ならないものであった」とはその時初めて言える、結果論でしかないのではないか?本人も信用できる友人だと思い込んでた人に裏切られて傷ついているのだとしたら?想像でしかないが、それでも「お前の見る目がなかった」と批判されるべきなんだろうか。

彼に対するファンからの反応を眺めていると、どうにも複数の論点が絡まったまま、「アイドルにスキャンダルが出ることはよくないことだから」というところで思考が止まったまま批判がなされているような気がした。異性愛主義的規範が暗黙の大前提のように話が進んでいくことに違和感を覚えて、でも自分と同じような意見をほぼ見かけることがなかったので、こうして長々と言葉にしている。別にだからといってオタクに何かを啓蒙してやろうというつもりもないしわたしにそんな権限はありません。

繰り返しになりますが、わたしが彼の行動それ自体で明確に批判されるべきだと考えるのは「ライブを控えた身で対策もままなっていないまま人と外でフラフラしていたこと」この一点のみです。それ以外のアイドルのプライベートに関しては、どこまでファンが踏み込んでいいのか、我々が基準としている物差しの方が狂ってはいないか、もっと問題を細分化して、前提の前提に立ち帰って、それぞれに慎重に検討が必要なんじゃないでしょうか。

わたしはやっぱり今でも彼のステージでの表現はどれもとても素晴らしいことを知っているし、ライブ演出にも携わってその知識や才能を発揮しているのも知っているし、自分の人生を冷静に検討してそれでもなお学業とアイドルの両立という過酷な道を選んだ胆力のある人だということも知っているし、どんな仕事にも一つ一つ真摯に向き合って結果を残してきたことを知っているし、ちょっと変だけどおもしろい人となりをしていることを知っている。彼に落ち度が一切なかった、とは言い切れないにせよ、彼の今までのキャリアや人格を全否定するような意見を目にするのはちょっとつらかった。

 


それはそれとしてオタクへ

とまあわたしなりになるだけ客観的に理論立てて意見を述べてきたものの、今回は「自担(便宜)ではなかった」から、ある程度冷静さを失わずに思考することができていたところはあるように思う。自担(便宜)だったらたぶん最低でも1週間は寝込む。

でもだからこそ、自分もいっとう好きなアイドルに重たい感情を差し向けている以上、「好きなアイドルに恋人がいてシンプルにつらい」というオタクの気持ちを、正しさだけで叩き斬るようなこともしたくないなぁ、と思う。

自分が知らなかっただけでたしかに存在した事実を受け入れられなくて、心が分離と癒着を繰り返してめちゃくちゃになって、好きだった相手本人を憎んでしまいたくなる気持ちにも、そうだね、って言いたい。アンチではないそういうマイナスの感情はただ1人の自分の「好きなアイドル」に真摯に向き合っているからこそ出てくるものだと思うから。でもそれを「アイドルが恋愛禁止なんて当たり前だから」とか、「事務所の慣例だから」とか、「デビューが遠のく」とか、まやかしの正当性で武装してアイドルを殴らないでほしい。そんな取ってつけた理由がなくても「自担に女いるの嫌だ!!!!!!!!!!!」ってみんなもっと素直に言えたらいいのに。思うだけなら自由なんだし。思うだけならね。

だし、アイドルのプライベートを尊重することと、「それはそれとして自担に恋人がいるのは嫌だ」という感情は両立するものだとわたしは思ってます。両立させていきたい。

 


それはそれとして自担(便宜)へ

ところでずっと自担(便宜)と呼んでいるのは「わたしは彼の何も担当していないし彼もまたわたしの何も担当してもらっていないので自担とは呼べないが、これに代わるいい代名詞が思い当たらないので便宜上使用している」の意です

ライブの感想以外にも誕生日以前にいろいろ書き溜めていた文章があったのであげようと思っていたのですが、その間にも思想がかなり変わってきたのでやめました。

今思えば荒唐無稽な話ではありますが、わたしは自担(便宜)のことを自分(と同じ)だ!と思っていたことが度々あり、自担(便宜)のことを自分が実現し得なかった可能性を具現化してくれる自己の延長のような存在に感じていました。

「アイドルについて葛藤〜」やこれまでの「恋愛禁止」ルールに近い部分でいえば、異性愛主義的規範にも則れず、かと言って勉学にも仕事にも創作的趣味にも没入できなかった自分にとって、メンバーと家族とも友人とも恋人とも違う唯一無二の強い結びつきを築きながら、人生を賭けて自己実現に全力投球している(ように見える)自担(便宜)が羨ましくもあり、救いでもあり、これからも永遠にそうあってほしいと願ってしまいます。しかし同時に、オタク人生において数多の恋愛スキャンダルと異性愛主義思想に長年曝され、心が摩耗しきってしまった経験から「いやまあどうせ彼女くらいおるやろ」と思っていることもまた事実であります。相反する感情のどちらもが、最終的には「恋愛禁止」ルールの強化に加担してしまっているのではないかと逡巡してしまいます。

わたしは最悪のオタクなので、そのままならなさやわからなさ(こちらがままならない、わかりあえないという思いすら抱くことを許さず、無邪気に相互理解を求めているような言動も含めて)を、自担(便宜)本人に対する怒りとして表出してしまうこともありました。それ以前に書き溜めていた文章は、その怒りの感情が鎮まってくるにつれ、自担(便宜)に向けている感情や個人的解釈を多少なりとも筋の通った形で言語化することを試みていたものでしたが、やはり自担(便宜)のことはよくわからないな、と最近また改めて、諦念ではなくよりポジティブに思うようになりました。それでもやっぱり自担(便宜)のことが好きです。そつがなく物腰柔らかな痩躯からは想像だにしない強大な、「己の表現を見て(聴いて)ほしい、己の話を聞いてほしい」の感情が迸る姿を可能な限り見ていたいと思う。わからないなりに。

自担(便宜)がアイドルをやっている姿を見て、それがうまくやれている時も、ちょっとうまくいかなかったんだろうなという時も見てきて、ああ自分もこのくそったれた世界でなんとか折り合いつけてやっていこうって思わされた経験があるからこそ、アイドルがうまくいかずに苦しんでいるその原因が社会やシステムにあるのだとしたら、最低限それには怒って抵抗していきたいし、もっと根本的な自己意識に苦しんでいて、その様子をオタクを信頼して開示してくれるのなら、理解することは不可能だとしても、そうだね、しんどいねって、邪推を挟まず素直に受け止められるくらいにはなりたい。

 

 

 

 

 

 

 

きっと頰に降る輝きが 望んでた正夢と知らない

1月22、23日に開催された、IDOLiSH7 LIVE BEYOND"Op.7"、両日現地参加してきました。

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とにもかくにもひとまず、2日間無事にやりきれて本当によかった。急転した社会情勢の中で、本当に開演するのか数週間毎日気が気じゃなかった。もちろんできうる限りの感染対策を講じて、誰とも会わずに1人静かに行ってまっすぐ帰ってきたけども、2日目の開演10分前くらいまでずっと、今からでも公演中止のアナウンスがなされるんじゃないかと覚悟しながら客席に座っていた。自分も観に行った別次元の好きなアイドルが出演する舞台が、千秋楽を待たずして中止になったりしていたので、なおさら身につまされるものがあった。あとは出演者はじめ公演関係者にウイルスの魔の手が及んでいないことを願うのみです。

そうした情勢を鑑み、フォロワーの大多数が現地チケットを手放し配信視聴に切り替えていたように思う。非常に正しい判断だと思う。そもそもわたしも公演決定当初は現地に行くつもりはなかった。配信かライブビューイングで見れたらいっかな〜くらいに思っていて、記念受験感覚でアプリ先行を申し込んだらまさかの両日当選してしまい……

わたしが「絶対に現地に行きたい」と思うようになったのは、そうして奇しくもチケットを所持していたというのも大きかったけど、そろそろ自分の中でけじめをつけないといけないんじゃないか、と思っていたからである。

 

このブログ、実は矢花くんについて語るために新規で開設したものではない。元はそれ以前に推していた人についていろいろと書いていたが、その記事を全て消去し、タイトルを変えて再利用している。最近になってようやく、当時からブログを読んでくださっていた方とTwitterでコミュニケーションを取ることができ、「一体何があったのかと思った」と言われた。確かに今まで読んでいた記事が突然全部無くなったかと思えば、誰かも分からんアイドルの話が唐突に始まったらびっくりする。申し訳ないことをしたなと思う。

その「以前推していた人」が、アイドリッシュセブンで二階堂大和役を務める白井悠介さんである。

白井さんのことは5年近く応援していた。出会ったのは2015年の初秋、友人の勧めでアイドリッシュセブンのゲームをプレイし始めたはいいものの、豪華声優陣!と銘打たれたメインキャストの中で唯一見覚えのない名前だったのが彼だった。二階堂大和という複雑ながら魅力的なキャラクターを表現する唯一無二の声と芝居に始まり、気づけば人柄も含めて好きになっていた。彼を応援していた5年間、大した年数ではないかもしれないが、諸事情で体調を崩し高校を辞めたり、彼に会いに行きたいがためにアルバイトを始めたり、浪人して大学に入学したり、個人的には人生の転換期のような期間だった。彼に出会っていなければ早々に首を括って人生を終えていたかもしれないと、今でも割と本気で思っている。周囲の目を気にしすぎず自分を貫いて生きようとする姿勢は彼から授かったものである。

オタクをやめるに至った理由はいくつかある。2020年2月を最後に毎月のように通っていた現場がコロナ禍によって全て無くなった。翌月になると彼は、今までやってこなかった活動に積極的に着手し始めた。加えてわたしの彼に対する信用を損なう事件もいくつか起きた。幸か不幸か大した炎上騒ぎにもならなかったが。

わたしが原点として大切にしてきたものを、本人によって全て踏み躙られたような気分になった。当初は楽しみにしていた新しい活動も、蓋を開けてみれば一切受け入れられなかった。それまでの応援の中で、自分が無意識下で抑圧して無理をしていた部分が、徐々に反転して憎悪に変質した。自分で直接見聞きしたものだけを信じ、損なわれた信用を取り戻せる貴重な機会だった現場もない。Twitterの通知を切り、ミュートし、フォローを外し、最後はブロックした。あれだけ好きだった声を聴いてもなんのときめきも湧かなくなった。失われたときめきを補うかのように入れ替わりでジャニーズにハマってしまい、現在に至る。

前述の通り、白井さんにまつわるわたしのブログを楽しく読んでくださっていた人がいて、白井さんをきっかけに交流が始まったフォロワーも多かったから、どこかのタイミングでこの経緯を表明しておかないとな、と思っていた。できなかったのは、何を書いても最終的には呪詛になってしまったから。当時の感情の移ろいを記録した日記が残っていたからそれを公開してもよかったが、誰のためにもならないと思った。インターネットに公開すべきでない罵詈雑言しか出てこなくなってしまって、それをブログにまとめるのは気が引けた。なんなら今でも新鮮な憎しみの感情が生きているから、どうにか呪詛にならないように気を遣って言葉を選ぶと上記のようなフワッとした文章にするのが限界だった。

そうこうしているうちに2年も経ってしまった。もちろん作品が好きだからライブを見たい気持ちもあったけど、今このタイミングで、わたしが一番愛していた二階堂大和役としてステージに立つ白井さんを目の当たりにできたなら、良くも悪くも何かが吹っ切れて変わるかもしれないと思った。パフォーマンスを見て何も感じないのであれば彼や彼に付随する諸々に対する好意的な感情が完全に何もなくなったのだとわかるし、もし多少なりとも素敵だと感じるのであれば、ならどうしてそれを不意にするような真似を、とそれはそれでまた新たな憎悪を招くかもしれない。どちらに転んでも恐ろしいけど、そろそろ確かめたい、確かめなければと思った。

 

1日目に入ったのは上階スタンドで、たまたま隣席が同担だった。彼女のカバンからはファンサうちわが覗いていたが、「あんなおじさんからファンサをもらってどうするつもりなんだ」とマジで思っていた。

ライブが始まる。1曲目はDiSCOVER the FUTURE。MVでアイドルたちが着ていた衣装は白と淡いメンバーカラーのシアー素材が印象的な可憐なデザインで、正直30代男性が美しく着こなすのは至難の業だろうと思っていた。それでも、MVからそのまま出てきたかのような衣装をまとったキャストの7人がそこにいて、思考する間もなくわたしの視線はただ1人を捉えていた。

かっこいい、と思った。

使うことはほぼないだろうとたかを括っていた双眼鏡を思わず手に取った。か、かっこいい〜〜〜〜〜〜〜…………………白くフワフワとした衣装を着ているのにそれでもかっこいい。脚がめちゃくちゃ長い。そうだった、白井さんは映像越しで見るよりも現場で見た方が盛れてかっこよく見える不思議な人だったんだ。初めて現場に行った時からずっとそうだった。その瞬間思い出した。

しばらくジャニーズばかり追いかけて目が肥えに肥えているはずなのに、珍妙なダンスもなんだかかっこよく見えてくる。むしろその遠目からでも一発でわかる独特な動きに、ノスタルジーを孕んだ愛おしささえ感じてしまう。

あと歌。想像していたよりも全然安定していて、かなりCD音源に近いクオリティで歌えていたことに驚いた。むしろCD音源よりも情感豊かにしっかり歌いこなしている曲すらある。7人ユニゾンで歌っていても絶対真っ先に聴き取れる、音の密度の高いよく通る声。まだ本調子ではない三月役・代永翼さんと同ユニットで近いパートを担っていることも多かったからか、自ら曲を先導するかのようにも感じられた。2019年のライブの最後に「これからはリーダーとして自分がもっと引っ張っていけるように頑張りたい」と語っていたのを体現しているようだった。

2年前に死んでしまったと勝手に思い込んでいたものが、目の前にも、わたしの中にもあった。2年前にそっくりそのままタイムスリップしたかのようだった。あの時と違うのはマスクをして声を出せない状況にあることくらいか。制約こそあれど、彼を目で追いかけ続けるのがただただ楽しい。そうして素直な気持ちで作為なく「楽しい」と感じられることが嬉しかったし、それを嬉しいと感じられることもまた嬉しかった。開演までは親の仇ほど怨んでいたことも忘れて、ただ1人だけを見つめ続けた。

好きなものを増やして気持ちを分散させようと努力してはいるものの、結局唯一不動の一番の「推し」のことばかり常に考えてしまう単推し気質なわたしが、今一番の「推し」の存在が一度も脳裏をよぎることなく、「推し」とはまったく関係ない現場を全力で楽しめていたことにも驚いた。もうこの作品は、この人は、わたしにとって推しだ好きだなんだという序列を外れ、それを超越した存在になりつつあるのかもしれないと思った。

 

あとアイドル論的な話にはなるが、わたしは自分が思ってるより2次元アイドルとその担当声優を同一視はしていないんだな……と思った。二階堂大和くんのことはキャラクターとして好きだけど、ゲームやアニメの中で見る二階堂大和くんがライブで見たそれと強く結びつくかと言われたら肯定はしづらい。ライブが始まった瞬間感じた「かっこいい」の感情は間違いなく二階堂大和くんではなく白井悠介さんに向けられたものだ、という実感があった。

2次元アイドルコンテンツの声優が出演するライブをうまく楽しめない、と悩んでいるフォロワーを見てもあまりピンと来なかったのは、声優と役をピッタリ重ねて見ているからというより、"アイドリッシュセブンの"キャスト陣がキャラクター役としてステージに立つ時の、各々固有のそのキャラクターとの向き合い方そのものを愛していたからかもしれない。

じゃあ他のコンテンツのライブはどうだったんだと反論されそうだけど、二階堂大和以外の白井さんの演じるキャラクターは全て「白井さんが演じているから」が発端となって好きになっていたから、"白井さんが"そのキャラクターを如何にして表現するのか?という点に鑑賞の主軸がそもそも置かれていたように思う。それらに比べると少しだけ、本当に少しだけキャラクターに接近した、白井悠介さんの肉体を借りてわたしと同じ空間にやってきてくれた二階堂大和くん、二階堂大和くんという服を着てステージに立つ白井悠介さん、あるいはそのもっとあわいにある空気感のような繊細で儚いものが、わたしが好きで失いたくなかった本質だったのかもしれない。

そしてわたしが固執するそんなあやふやなものを一番大切にしながら表現してくれるのが、アイドリッシュセブンのライブイベントだなとTHE POLiCYの演出を見て思いました。半透明のLEDディスプレイに囲われて姿がハッキリ目視できない状態で丸ごと1曲歌い切る7人。そこに何を見出すかは我々観客に委ねられているけど、わたしはそういう多元的でグラデーションを大切にする演出を選んだアイドリッシュセブンの作品総体としての姿勢に強く心打たれました。それに、アイドルを担う1人の人間の人生や人格とは若干の距離がある概念的存在としての「アイドル」という点では、3次元で実際にアイドルをやっている人々とも心持ちとしてはあまり大きな差はないんじゃなかろうか、と奇しくも3次元のアイドルのオタクになってしまった今となっては思います。

 

ここ2年事情を知る数多のフォロワーから再三ご助言いただいた(ありがとうございました)「才能や作品とその人のパーソナリティは別」というのをようやく実践できるようになった気がしました。実践できるようになるまで2年を要しました。気持ちが離れると同時に整合性を取るため、あの5年間は無駄だったんじゃないかとか、好きだったはずの過去の推しや過去の自分もろとも全否定してしまう時期もあって、そのせいで好きだったものにも何の魅力も感じられなくなってしまっていたのがすごくつらかったけど、わたしが好きだったものは何も輝きを失っていなくて、だったらもうそれだけでいいやって素直に満ち足りた気持ちになれたのがすごく嬉しい。時間が経って過去になって美談にしてしまえるようになっただけと言われればそれはそうなのかもしれない。でもあの時と変わらぬこのときめきと確かな実感は絶対に信じられるし、現地に行かないとこれほどまでの確信を持って気づくことができなかったと思う。無理をしてでも行った価値があったと思う。

とはいえ今でも白井さんに対しては許せない気持ちも少なからずあるし、割り切れたは割り切れたでメロった5秒後に(自主規制)すぞ!って暴言吐いてる感じなので、余計に感情の振れ幅は大きくなって不健全なような気もしますが…… たぶんフォロワーが心配してくれてるよりは以前より元気なので安心してください!

 

白井さん、もうわたしがあなたのファンを名乗ることはないだろうけど、やっぱりあなたは唯一無二の天才で最高の役者だと思うし、二階堂大和役は絶対にあなたじゃなければ務まらないと信じています。あとこの日のために衣装に合わせて眼鏡を自前で4本も用意していた*1の、すごく嬉しかったです。

二階堂大和くんのこと、アイドリッシュセブンのこと、これからもよろしく頼みます。ほかの仕事は知りません(ごめん)ブロックしてるからどうせ届かないだろうけど。

 

わたしも白井さんも作品もこれからどうなっていくかわからないので何とも言えませんが、必死で追いかけた5年と、悩んで苦しんだ2年とにようやく一旦区切りをつけられそうです。長々担降りブログ書くタイプのオタクが嫌いだったのでそうはなりたくね〜って思ってたけど、この記事はわたしのためにどうしても必要だと思ったから書き留めました。

 

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自担も劇中で同じようなこと言っててウケるね

 

 

 

*1:ステージでお披露目されたのは3本でしたが、代永さんのツイートhttps://twitter.com/numanumakapa/status/1486270654517493762?s=21https://twitter.com/numanumakapa/status/1486271287224061954?s=21で幻の4本目が存在したことが発覚

J31Gate 第21回「数」掲載歌解説

遅ればせながら、J31Gate 第21回「数」発行おめでとうございます。今回も2首掲載していただきました。

 

063 ジャンク品の玉座の上したり顔「王子」と呼ぶのは少しくやしい

"八"王子出身であることを日頃から公言している矢花くん。また、たびたび中古で手に入れた楽器を自ら改造して使用している矢花くん。

八王子といえばどデカいリサイクルショップの複合店があることで有名ですが(そうなん?)、そんな生まれの土地柄のせいか、キラキラのジャニーズアイドルには似つかわしくないはずの、庶民的でノスタルジーさえ感じるような場所もなんだかしっくりきてしまう。かと思えば、その中古の楽器をお供に、ステージ上では誰よりも目を惹く光輝くパフォーマンスを見せてくれる。そんな彼の唯一無二で独特な佇まいを詠みました。

今年2月、突如として「月曜から夜ふかし」の街頭インタビューに地元八王子から出演を果たし、ファンを騒然とさせた矢花くん。その時見せた照れ隠しのような、してやったりのドヤ顔のような、何とも言えないマスク越しの笑顔が今でも脳裏に焼きついて離れません。それすらも彼の思惑通りなのかもしれないと思うとたまらなくむず痒い気持ちになりますが、なんだかんだでそんなところも含めて好きです。

(ただ本当にこのご時世何が起きるかわからないので、早いとこご実家を出ていただけると誠に勝手ながらオタクは安心します……)

 

 


064 トリセツは読まないタイプとは言えど知りたくて5150

Johnny's webにて連載中の7 MEN 侍のブログ『異担侍日報〜侍ふ。〜』。10月13日に更新された水曜vol.26では、矢花くんが使用しているギターのマルチエフェクターについて解説してくれています。

普段は素人も多い我々に向けて、伝わりやすい例えを探したり、手描きの図解を作成したりととてもわかりやすく解説しようと努めてくれる矢花くんですが、この回では珍しく、専門用語や具体的な設定数値を用いて超・超・超詳細に解説を行っています。ギターを弾かないわたしから見ればマジでただの暗号です。正直後半は薄目で斜め読みしました。ごめんなさい

隙自語ですがわたしは普段から家電などの取扱説明書をちゃんと読むことがほぼなく、「とりあえず触ってみればわかるっしょ」と思ってしまうタイプでして。それと同様に、趣味の音楽や美術鑑賞の際も「理屈より何より自分が見ていいと感じたものはいい!」と考えてしまう方なんですよね。理論や背景の文脈がわかればより一層面白いというのもとてもわかるのですが、何せ勉強が苦手なもので……

音楽について知識が増えると世界が広がって面白いよ、と日頃から我々に呼びかけ、いろいろなことを教えてくれる矢花くん。その全てを理解してあげられないことに申し訳なさを感じつつも、彼の表現の根幹に関わる大切な部分をたくさん開示してくれるのが嬉しくもあり、「そんなに何もかも明け透けにしなくてもいいよ」という思いもあり……。

真面目に勉強する気はないけど彼の見ている世界に少しでも近づきたい。身勝手で浅はかで愚かなわたしは、今日も追いすがるような気持ちで、彼の敬愛するヴァン・ヘイレンのアルバム『"5150"(フィフティーワン・フィフティーと読むそうです)』を再生してしまうのでした。

5150

5150

余談ですが、上の動画はヴァン・ヘイレンのギタリスト、エディ・ヴァン・ヘイレンが亡くなった時に更新されたもの。本人曰く「有名人が亡くなってあんなに悲しい気持ちになったのは初めてで、何日か落ち込んだ」のだそう。ジャニーズJr.という、自分の思想を自由に発信できる手段の限られた立場でありながら、ミュージシャンへの心からのリスペクトのこもった、とても粋な哀悼の意の示し方だと思います。

 

 

 

うーん難しかった!グループ名とか誕生日とか887とかありきたりだな〜と思って避けようとするあまりめちゃくちゃ前提知識が必要なわかりづらい歌になってしまった気がする…… 解説がなくても、詠まれている対象を知らなくても、詩的・文学的な美しさを楽しく鑑賞できる歌を目指していきたいところ。

アンチ・推し活

CREA秋号に掲載されているジェーン・スーさんの推し活エッセイを読んだ。

非常に共感する部分が多く、面白かったです。

昨今の「推し活」をやたらめったら称揚・肯定する風潮には賛同できない。「オタク」を自称し始めて10年ほど経ち、「楽しそうだね」「愛があるね」などというコメントを頂戴する機会も少なくない。楽しくなかったといえば嘘になるが、きっと世間が想像する「推し活」のような、キラキラしたいいことばかりでもなかった。これにはお金や時間や体力のやりくりが厳しいとか、欲しいチケットやグッズが手に入らなくてつらいとか、事務所や運営がカスでつらいとか、同担がムカつくとか、まあそういうことも含まれるが、もっと根源的な、推す者と推される者との一対一の関係性そのものの脆さと不均衡、もっと言えばそんな関係が本当に存在しているのかも怪しい、その虚無感と果てしない絶望に依るところが大きい。家族、友人、恋人、そのどれに向けるでもないこの感情は、たぶんわたしのように切実な意味で「推し」ができたことがある人以外にはまったく理解されないものだろう。遊びでやってんじゃねえんだぞ(遊びでやってください。趣味なので)。

 

好き勝手な解釈を図々しくも「発見」と名付け、理解が進んだと快哉を叫ぶ。過熱した推し活はライトな人権蹂躙だ。人を人とも思わなくなる瞬間が簡単に訪れる。愛情の多寡で言い訳できることではない。単なるファンとの違いはここだ。自他の境界線があいまいになる対象が推し。推す側の人間性が顕わになるのが推し活。

 

前述のエッセイの抜粋である。「ライトな人権蹂躙」という表現が非常に秀逸だが、その通り、推す側の獣のように暴れ回る「好き」の感情、その帰結として表出する言葉や行為の数々は暴力に他ならない。こちらが相手を「推し」と定義している限り、相手の人権を尊重し、対等な人間関係を構築することは困難を極め、一方的な搾取に終始する。推される側もまた、推す側の「好き」の感情を人質に取り、金銭などを「搾取」することができる(これはどちらかというと推される者本人が、というより事務所や運営がそういう態度に出ている場合も多いが)。だからといって、こちら側からの「搾取」が相殺されるとも思わない。推される者と推す者は、その関係性の構造として、互いに一方的である。

その相互コミュニケーションではない一方通行なところが居心地よく感じていた頃もあったが、そのスタンスもどうにも立ち行かなくなったということは以前もブログに書いた通り。いくらこちらが「アイドルは偶像だ!」と叫んだところで、その向こう側に我々と同じ、血肉の詰まった、支離滅裂で、一貫性も物語性もない、ただひとりの人間が存在していることは揺るがぬ事実である(その人間の存在を見せる/見せないはさておき)。

こんな不健康な関係とっととやめちまえというご意見はごもっともだと思う。それでもわたしは、この「ライトな人権蹂躙」なくして自分の人生をやっていくことが、今のところ到底できない。わたしは推される立場になった経験もないしあまりこういうことを言いたくはないが、どうやら推される側もまた、「ファンの皆さんの応援」がないとやっていけない、らしい。であれば、せめて歪なりにもどうにかこうにか折り合いをつけて、たとえ無茶だとわかっていても、ひとりの人間どうし尊重し合える方策を探そうとする態度くらいは示していかなければならない、と考えている。ここまで世の「推し活」を支持する人から見たらドン引き必至であろうネガティブな理屈を展開してきたが、わたしはここに、人間が人間に人間として向き合う誠実さ、誰かとつながる感覚の喜びや安心感、それを求める切実さといった類の、わずかばかりの希望を見出したいと思う。

 

「君に好きとかありがとうって言うのを許されたいんだ」

わたしの大好きな漫画の一番好きなセリフである。

「言葉というものは貧しく弱々しいものだ。あなたたちに与えるものは何もない。(中略)愛。これも与えることはできない、なぜなら、許しなき愛はありえないからだ。」

またこれは先日観劇した舞台で一番印象的だったセリフ。

わたしはわたしなりに誠実に、アイドルを愛していたい。好きなアイドルをやたらめったらに消費したくはないし、好きなアイドルがこの大量消費資本主義社会に取り込まれてゆくことを善と信じて疑わず、それを幇助するような真似はしたくない。たとえそれをアイドル自身に望まれたとしても。

アイドルたちの思い描く「応援してくれる、力になってくれる"普通の"ファン」にはなれなくて非常に申し訳ないと思っている。それでも許されたい。特別に何かをしてほしいわけではない。ファン1人1人を個として、立場としても信条としても決して理解し合うことのできないまったく異なる人間として、そっとしておいてほしいだけなのだ。少なくとも、アイドルが好きだという感情くらいしか共通点のない人々を「対等な関係」や「チーム」だなんだと言って自他の境界を曖昧にし、全体主義的な論調に強制的に取り込もうとするようなことはしてほしくはなかった。時間を忘れさせてくれるような素晴らしいエンターテイメントを提供する側の人に「いつまでもあると思うな」と言われたくはなかった。それは感情を人質に取った搾取で恐喝だ。

他のメンバーが応援を求める中、ただ等身大の自分を呈示してくれたあなたに、この世で怖いものは「マジョリティ」だと答えたあなたに救われていた。こちらが都合よく拡大解釈した勝手な期待であることは重々わかっている。ただ、あなたのそういう振る舞いに救われている人間がいるということは知っておいてほしかった。いや、これも多分「知っていてくれればこんなことは言わなかったはずだ」というわたしの思い上がりでしかない。醜い。

彼らが今より大きな「応援」の声を必要としていることは事実なのだろう。わたしだって、然るべき形で好きなアイドルが大勢から賞賛されることはとてもうれしい。でもその賞賛を掴み取るのは彼ら自身の才能と努力によってであって、ファンの「応援」の力ではない。アイドルは皆すぐ「ファンの皆さんのおかげで」と言いたがるが、ファンがアイドルに施してやれることなど何もないとわたしは思う。アイドルの輝かしい唯一無二の才能が、どこぞの誰とも知れぬ、自分の行いをよいことだと信じて疑わぬ「善良な」ファンの醜い承認欲求にまみれさせられることに、わたしは憤る。

だから、ファンのことなど顧みることなく、その才能と思索の断片を、ほとばしる自我、自己顕示欲とともに浴びせかけてほしいのだ。自分はここにいるのだとただただ叫び続けるあなたは本当に本当に美しい。そしてこれは本当にわたしの愚かなところでもあるのだが、そうして強大な自我と闘いながらも、それでも他者であるファンを思い、不器用ながらも交流しようと無邪気な澄んだ目を向けてくれる優しいあなたがいっそう、どのアイドルよりも綺麗に見える。前述の言葉もその優しさがゆえのものだったのだろう、とも思っているし、そこもひっくるめて好きになってしまった以上、向こうの言葉で傷つくことはある程度予測がついていた。途方もない数の人間からの言葉で傷ついてきたであろうアイドルに比べれば気にするのも馬鹿馬鹿しいくらいの傷かもしれない。それでもわたしは痛い。苦しい。

わたしの幸せも、苦しみも、最終的にはわたしが1人で引き受けなければならないものであるように、アイドルの夢の実現も、さまざまな重圧も、アイドル本人が引き受けなければ仕方がない。それを理解した上で「俺たちを利用して幸せになってください」とファンに呼びかけるアイドルが存在することを今夏知り、非常に感銘を受けた。しかし不思議なことに、わたしの特別は彼ではなく、あなたなのだ。明確な理由は未だ言語化に至っていない。ただわたしは、あなたを見て、あなたに救われ、あなたを好き勝手に解釈することでしか生きていけない。あなたを握りしめた手に血が滲んでも、まだしばらくはあなたを手放すことができない。

オタク、短歌を詠む

ジャニーズアイドルにまつわるWEB短歌集『J31Gate』さん 第20回に、拙作を2首掲載していただきました。

以前から遠巻きに楽しそうだな〜と眺めていた企画だったので、今回初めて参加できて本当に嬉しいです!

 

野暮とは知りつつ、以下解説です。

020 夜明けが連れてきたきみは彼は誰の黒と光芒の白を抱いて

言わずもがな、2首とも矢花くんを思って詠んだ歌になります。今回はアイドル名を伏せた状態での発表でしたので、もうちょっとそれを生かした作り方ができればよかったな……というのは反省点のひとつ。

この歌、1ヶ月遅れの誕生日祝いの気持ちも込めた歌になりました。2000年8月10日の明け方に生まれたという矢花くん。そのことにちなんで、「黎」というとっても綺麗で素敵な名前をご両親から授かっています。矢花担は全員もれなく彼の名前が大好き!(クソデカ主語)そんな同担の皆さんにはとっくにご周知でありましょうが、この「黎」という漢字、訓読みで「くろ」と読み、「黎明」のように"夜明け前の暗がり"を指して使われることが多い漢字です。

そんな名前に「くろ」を背負った矢花くんの、7 MEN 侍におけるメンバーカラーはなんと正反対の「白」。グループ加入時に青か白の2択で自ら白を選んだのだとか。

「色」がテーマでメンバーカラーを詠み込むというのはベタベタのベタではありますが、やはりこのちぐはぐさに矢花くんらしさがとても表れているような気がして、詠まずにはいられませんでした。

YouTubeではグループのMC&ツッコミ担当として、容赦なく浴びせられるメンバーの愛あるボケを1つ残らず丁寧にさばいたかと思えば、ステージではヘドバン、デスボ、歯ベース、しまいには自分の楽器すら放り出して縦横無尽に大暴れ……とおおよそジャニーズらしからぬ激しいパフォーマンス。長尺1人喋りで大好きな楽器や音楽の話をたくさん聞かせてくれるISLAND TVや、「思想が強い」と揶揄されるほどのハイカロリーなブログからは思慮深さや繊細さ、ちょっぴりの卑屈さが感じられるのに、誕生日をサプライズでお祝いされて思わず涙が出てしまうピュアさも持ち合わせている。そんな見ていて飽きない二面性の数々を、「黒」と「白」の2色で表現できたらなと思いました。

「彼は誰」は「かはたれ」と読み、相手の顔がよく見えず、「あなたは誰ですか?」と問いかけなければならないほど薄暗い明け方を意味しています。ちなみに夕暮れ時は「誰そ彼/黄昏(たそかれ)」といいます。

「『普通』ってなんだろう」「『知る』ってどういうことだろう」「『運命』を信じますか?」など、しばしばブログで我々に問いを投げかけてくれる矢花くん。どれも抽象的でひとことで答えるのは困難なトピックばかりですが、それぞれの価値観や生き方が色濃く表れます。これすなわち、「あなたはどういう人間ですか?」「あなたは誰ですか?」と、暗闇の中から問いかけられているのと同義であるような気がします。逆にこちら側から、「矢花くんってどういう人なんだろう」「何を考えているのだろう」と近寄っても、その全貌が見えてくることはない。矢花くんが纏う「黒」は深淵の黒でもあるのです。

夜明けが来ると朝日が昇ります。「ネガティブ」だなんだと自分では言っていても、「たくさんの人に音楽をもっと楽しんでほしい」「ファンの人々にいい影響を与えられたら」というアイドルとしての信念は、いつでも頑固なほどにブレない矢花くん。そんな矢花くんの澄み切った芯の部分を、空を真っ直ぐに照らす白い朝日の光と重ねて詠みました。「黎」の名前も"光線"を表す「Ray」と発音が似てますしね。

 

021 「共感覚ってほんと?」色を音に変換するエフェクターが問う

共感覚とは、文字に色がついて見えたり、音に色を感じたりする現象です。わたし自身共感覚を持っている……と断言できるほどではなく、どちらかと言えば自分の見たもの、感じたものをそうして別の概念として変換して感じ取ることができる人に憧れがあります。また、そうして感じ取ったものを再変換して、言葉や、絵画や、音楽などとしてアウトプットできる人たちには、少なからず共感覚的な感性が備わっているのかな、と感じるし、そういう人のことを本当に尊敬しています。そんな共感覚の「変換」の機能を、矢花くんがいっとうこだわりを持っている楽器のエフェクターに重ねて詠んでみました。

矢花くんの奏でる音を聴くたびに、これは彼が五感をフルに活用して、命をかけて、見て、聴いて、触れて、感じてきたものすべてが、変換・圧縮・加工されて詰まっているのかもしれないなぁ、と思う。そんな「音楽」という唯一無二で強大な武器を持っているにもかかわらず、さらに言葉を尽くしてどうにか我々に自分を理解してもらわんとしているのがやはり面白い人だなと思うし、それは彼なりの優しさなのではないだろうか。であれば、たとえわたしが共感覚を持ち合わせていなくても、エフェクターの扱いなどまるで何もわからなくても、せめてできる限り誠実に、その表現に向き合う態度は示していきたい。そんなわたしの気持ち。

問われている側が矢花くん、とも解釈できるかもしれませんね!矢花くんもわたしも多元的解釈ができる作品が好きなタチのようなので、これ以上の言及は避けようと思います。どんな印象を受けたか、どのように解釈されたか、後学のためにも教えていただけると嬉しいです!

歌の後半がちょっと説明くさいな〜と思ったのですが、矢花くんの理屈っぽさを表現するためにあえてということd嘘です!!!!!!!!!!わたしの力不足に他なりません!!!!!!!!!!精進します!!!!!!!!!!

 

今まで何かを創作して、それを作品として世に出すというのがあまり得意ではなく(ブログは作品というより掃き溜めって感じなので……)、だからこそ、クサいセリフも音楽に乗せて全力で言葉にすることができるアイドルが好きだった節もあるのですが、短歌を作るのは拙いながらもとっても楽しかったです。アイドルには、特に矢花くんには、ファンである我々にも何かを語らせる、思わず何かを表現したくなる、そんな気持ちを引きずり出すパワーがあるのだろうなと改めて思いました。

素敵な企画に参加させていただきありがとうございました!反省点も多々見つかったことですし、またどこかの機会にリトライしに来ます。