コピー用紙

なにも知りません

タイム・トラベル

異担侍日報〜侍ふ。〜、マジで水曜日だけ咀嚼に死ぬほど時間がかかるし、水曜夜から木曜にかけて毎週体調を崩すので今からでも水曜日だけ月1更新とかになりませんか?(なりません)

というわけでようやく答えらしき答えが見つかったのと、オタクからの発信を求めるアイドルへ献上するためのブログを書いてみてもいいかな、と少しずつ前向きに思えるようになってきた(気が向いたら別記事にする)ので、2週前の問いかけに今答えようと思います。

 

わたしも同じく、過去に戻れる力があったとしても戻る気はありません。なぜなら戻ったところでどうすんの?と思っているからです。

人生の選択を間違えたなと思うことは多々ある。けど、未来を知る今のわたしが過去に戻って、その時その時の"最善"の選択をし直せたからといって、その後の人生がよりよいものになる保証はどこにもないし、"最善"の選択に見合う"最善"の人生をその後歩んでいける自信がない。

あと"最善"を選んでしまったからこそ取りこぼすものも確実にあると思う。それは今のわたしが既に取りこぼしてしまっているものに比べれば微々たるものかもしれないが、その後取り返しのつかない致命的な欠落に変容していくかもしれない。バタフライエフェクトというやつ。

それに、その時の選択が"最善"ではなかったにしても、その時その選択をしなければそれは「わたし」ではないような気がする。それこそ今週の議題(議題?)にもなっていた「『自己像』と『理想像』の乖離」である。

ここまで比較的一般論として、「人生とは時間という直線上に一本に連なった状態で存在するもの」という前提で回答したが、この認識も最近怪しいと思うようになった。人間とは多面的・多層的な生き物であるがゆえ、その生涯も一本線には多分ならない。人生は物語ではないから、その選択全てに合理性や理由が存在しているわけではない。そんな調子で一貫性など保てるわけがないのだから、「意味もなくこうしたい」と宣言する必要すらなく、意味もなく行動して(しなくて)いいと思う。「いいと思う」とかわたしが承認する必要もなく、きっと数十億の人間が今この瞬間もそうやって生きている。その瞬間その瞬間でその人が何かを選び取ったり取らなかったりしたという「事実」のみがそこに在り、人生とは単にそれが積み重なっている"だけ"なんじゃないだろうか…… とかそういうことを考え続けていると、過去に戻るとか戻らないとかがなんか割とどうでもよくなってくる、ような気がする。

「大豆田とわ子と三人の元夫」というめちゃくちゃに面白いドラマが放送されている。先日放送された第7話で、そういうようなセリフがあったので引用しておく。

親友のかごめを亡くしたとわ子が、たまたま出会った小鳥遊という男性に「かごめにもやり残したことがあったのだろうか」と問いかけた時の小鳥遊のセリフである。

どこ読んでも割とそうだな〜と思うけど、過去の時間を「場所」として捉えるのが特にしっくりきた。そう思うと過去の自分って「限りなく他者に近い自分」なのかもしれないなぁと思う。今と地続きなところももちろんあるけど、その時の自分は今の自分ではなくて「その時の自分」ただ1人しかいなくて、その時の自分にしかできない選択や判断があるんだろう。

だから過去に戻らない、というより、今のわたしが、過去のいろんな瞬間の自分とその時々の状況によって対話して、尊重して、なんとか折り合いつけてやっていくのが人生だし、みたいな認識。それは0をどうにか1に持っていって、1に到達した瞬間そこがまた0地点になる、みたいな地味で途方もない作業のようにも感じられるが、それでいいんだろう。だってわたしの人生は別に物語じゃないので。

そうは言いつつも、アイドルの人生のほんの一部を一筋の物語としてドラマチックに消費したがるオタクとしての自我はあるよね〜 愚かだ……

まあそれはそれとして、途方もない数の人間から感情を向けられながらも、他者の人生にまで思いを馳せられて、なおかつそれを自分にフィードバックできる矢花くんはすごく賢いなって思いますよ、わたしは。

 

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聴きながら書いた。