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モボ朗読劇『二十面相』〜遠藤平吉って誰?〜 感想 あるいはアイドル物語論

テメーいつの話をしてんだよという感じですが、品川から帰ってきた途端バイト先の人事がしっちゃかめっちゃかになっており、MPが全てそちらに割かれているうちに1ヶ月以上経っていました。Twitterはできるんだけどね……ブログに文章を完結させてまとめるの本当に難しいし気力を使う。なのでテンションも内容もブレブレです。以上言い訳でした

 

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とはいえとにかく本当に楽しい9日間でした。昨秋同じく7 MEN 侍から本髙さん今野さんがキャスティングされた『幸福王子』が本当〜〜〜にめちゃくちゃ良くて、今までの人生で観劇してきたすべての舞台作品の中で1、2を争うほど好きだったので、同じスズカツさん吾郎さんタッグで矢花くんが座長を務めると知った時は本当に気を失いそうになるほど嬉しくて、バイト先のバックヤードでまず出すことのない大声を出したことを今でも覚えています。

めちゃくちゃ楽しみだった反面、スタートの期待値が大きすぎてそれを超えてこなかったらどうしようとか、逆にこれが刺さりすぎて、たとえば極端な話「矢花くんはアイドルなんか辞めて俳優業に転向すべき‼️」みたいに、彼に求めることが、彼に向ける眼差しが大きく変容してしまったらどうしようとか、観るのが怖くなっていた時期も正直ありました。でも初日公演を観てそんなもんは完膚なきまでにブッ飛ばされました!いち舞台作品としてもちろん非常に完成度が高く、かつ俳優・矢花黎の卓越したポテンシャルの覚醒の先にアイドル・矢花黎のさらなる可能性を存分に感じられました。杞憂も杞憂!超楽しかった〜〜〜!!!!!!!!!!!

さすがに10回以上観たら途中で飽きてきて寝るかな〜とか思ってましたがそれもびっくりするくらいなかった。毎公演新たな発見があって、毎公演オーロラのように見せる色を少しずつ変える矢花くんの、艶やかでいてサイケな、品があるのにどこかタガが外れた声に聴き入りっぱなしでした。とにもかくにも初座長本当にお疲れ様でした。このご時世で最後まで走り抜けられて本当によかった。

 

矢花くんがカテコで何度か話していた通り、とても特殊なシナリオ構成の舞台だったと思います。1本道のストーリーが段階的に展開していくわけではなく、少年探偵団シリーズのさまざまなエピソードを継ぎ接ぎすることで、明智小五郎、二十面相(もとい遠藤平吉)、小林少年、それぞれの人物像が徐々に炙り出される、という形式をとるものでした。

原作を知らなくても楽しめるとのことでしたが、わたしは個人的に原作読んでから行ってよかったな〜と思いました。何せ抜粋、抄録、サンプリングで断片的にシーンが登場するので、いくつかでも「これあのエピソードのあのシーンだな〜」というのがわかれば、この独特な脚本にもついて行きやすかったかなと思います。結局セリフを一言一句違わず覚えてしまうくらいには繰り返し観たので、今思い返せば別に意味なかったような気もしますが……(どっちやねん)

音楽担当の大嶋吾郎さんがパンフレットで、この作品の音楽について「サウンドコラージュ」と表現していたのが印象的だったのですが、脚本についても同様だったと思います。シナリオコラージュとでも言うべきでしょうか。乱歩が、というよりはスズカツさんが、この場面をピックアップして切り取って呈示することで登場人物たちをどのように捉えていたのかが、セリフの言葉選びや演出だけでなく、脚本の組み立てや構造そのものからも窺えるように思いました。幸福王子の時もそうでしたが、児童文学の皮をかぶっていながらエッジの効いた毒気を孕んだ原作から、原作の良さを損なわないままもう一歩踏み込んだところまで描いてくれているようで、スズカツさんの脚本がとても好きです。

 

幸福王子との共通項としてもう1つ、「生演奏の音楽朗読劇」であることが挙げられますが、二十面相でもこの要素が存分に生かされていてとっても楽しかったです。矢花くんの真骨頂とも言うべきベースとボーカルが炸裂するロックなオープニングは言わずもがなではありますが、やはり期待をはるかに超えてかっこよかったし高揚しました。開始5分経たずしてチケット代元取ったな……と思った。あと今回はクラシックの楽曲がいくつかサンプリングされていたのが個人的には好みでした。別れの曲とかロミオとジュリエットとか。

歌唱パートに限らず、朗読される言葉ひとつひとつの音の響きを楽しむような演出が多いのも、幸福王子から引き続きスズカツさん演出の好きなところでした。前述の通り冒頭からクライマックスまでリフレインされ続ける「明智は二十面相、二十面相は明智……」の印象的なフレーズ、歪んだギターとヴァイオリンをバックに「変装、予告状、屋敷、地下室……」と作品のキーワードがさまざまな声色で代わる代わる読み上げられるシーン、怖いもの知らずで楽観主義の小林少年が「多分、うまくいくだろうと思います!」と何度も繰り返すシーン(豊田くんかわいかった……)などなど…… 朗読される声や言葉すらも音楽という時間的で大きな流れを構成する一部として捉えられ、読み上げられるテキストを文学として味わうに限らず、ただ純粋に鼓膜を震わせる「音」として楽しませるような演出意図を(勝手に)感じています。

今作でその最たる例はやはり、影武者のくだりの後の高笑いのシーンでしょう……!!!推しの高笑いの演技、全オタクの夢だと思うんですけど(クソデカ主語)それが生で聴けるだけでなく、なんとその声がサンプリングされて、吾郎さんのDJプレイに使われるんですよね。そんなことある!?!?超カッコいいクラブミュージックに爆音で乗せられる好きなアイドルの狂った笑い声、朗読台を降り、見てて心配になるほど目をかっ開いて舞台を転がり回る好きなアイドル、回を追うごとにノリノリになる音楽担当のお二方…… いやこんな楽しい空間ある!?!?!?!?ちなみに友人にこのシーンの話をしたところ、「悪趣味な金持ちの遊びみたいだね」って言われました。このシーン見るのに諭吉出してお釣りが来るんだったらめちゃくちゃ安いような気がしてきた

 

メタ的な視点で申し訳ないですが、公演期間中「ジャニーズJr.が」「朗読劇で」この作品を演じる意味をずっと考えていました。幸福王子を観た時から、スズカツさんの脚本はこれらをかなり意識して、原作ありきの作品でも半ば当て書きのようなキャラクター作りがなされているように個人的には思っています。

幸福王子で本髙さん演じる王子は「自分が幸せに暮らすことが、この国が平和である象徴だった」と言って、塀の中で守られたまま、「自分は幸福だ」と思い込んで人としての生涯を終え、国民に担ぎ上げられるがまま街の広場の銅像となります。見晴らしのいい広場から貧困に苦しむ国民の姿を見つける頃には、自分の足は台座に縫いとめられ助けることすら叶わない──。その姿はある時は広告塔として、ある時は客寄せパンダとして、ある時は無知で無垢な若者の象徴として、あるいはプロパガンダとして、幼い頃から自分の意志とは関係なく、文字通り「偶像」として人々の関心を集め称揚されるジャニーズアイドルに重なるように思います。史上2人目の院進ジャニーズとしてグループのインテリ担当を一手に引き受ける知性と、それゆえか垣間見えるプライドの高さや傲慢さ、ある種の「拗らせ」感が、王子の役どころにハマっていたな〜と感じました。(個人の感想です。ディスってるつもりは毛頭ないです)

矢花くんに本髙さんとはまた別種の「拗らせ」が認められるのは、彼のブログを読めば言うまでもないでしょう。彼の場合、その根底に流れているのは「自己顕示欲」や「自己愛」と呼ばれるもののように思います。これもまったくディスっているつもりではなく、しがらみの多いであろう大手事務所に身を置くアイドルでありながら、自分の立ち位置を冷静に俯瞰し、その上でなお自己表現を諦めない矢花くんの姿勢が、わたしはとてもとても好きです。

作中では二十面相と明智のお互いに向ける強い執着や関係性について、「同性愛的」とすら表現されていました。また、「明智は二十面相、二十面相は明智……」のフレーズが象徴するように、全編を通して語られているのは「明智小五郎と二十面相は正義/悪の二項対立ではなく、似た者同士で表裏一体だったのではないか?」ということ。このことから、明智(二十面相)が二十面相(明智)へ向ける同性愛的感情は「自己愛」と解釈できるでしょう。二十面相という他者との推理合戦を通して自己と向き合おうとしている明智のその姿は、ブログを介して積極的にオタクと相互のコミュニケーションを図ろうとする矢花くんの姿勢と重なるような気もします。

 

「現代では落ち着いた所作から中年の印象を抱かれやすい明智だが、設定年齢は意外と若い」と劇中でも言及がありましたが、それを踏まえても矢花くんは設定年齢よりはるかに若い。これもまた、栗原さん演じる二十面相との対比になっていて、明智のカリスマ性の中に光る少年性にも近い危うさや脆さを感じられました。それまで「人殺しをしない」ことが彼の唯一最大の美徳であった二十面相が爆発による自死を選ぶことで、その美徳を過信していた明智を出し抜き逃れるシーンで物語が締め括られていることからも、明智は最後まで二十面相に一歩及ばない、すなわち「自己を超越できない存在」なのだなぁと思い、その人間臭さが愛おしくなります。

 

同時期に『SUPERHEROISM』というミュージカルが上演されていました。こちらも同じく7 MEN 侍から嶺亜さんと大光ちゃんが出演しており、矢花くんはなんと自身の公演期間中にわざわざ時間を作って観劇したそうです。律儀すぎるやろ

「自分の公演期間中にメンバーが芝居をしているところを観られてとても刺激を受けた」と、観劇当日のカテコで語っていたことに微笑ましさを覚えつつ、明智という役を背負った矢花くんはこの舞台を一体どのように受け止めたのだろう……と気になって仕方ありませんでした。

わたしはスパヒロは大阪公演を一度だけ観劇したのですが、タイトルの通り「ヒーローであるということはどういうことか」「人を救うとは、人に愛を送るとはどういうことか」を描いた作品だなと感じました。嶺亜さん演じるゴタンダは、愛とは何かを追い求める中でスーパーのアルバイトを通じて人との関わりを持ち、紆余曲折あって恋敵であったはずの大光ちゃん演じるピーマンの背中を押すため、自らが悪役を演じて、ピーマンが意中の相手であるチサちゃん(中村麗乃ちゃん)を助け出す、という作戦を立てます。演じているのは悪役ではありますが、ゴタンダは自己犠牲と博愛、奉仕精神をもって「正義のヒーロー」であろうとしたことが窺えます。結局ピーマンの恋は成就するどころか、チサちゃんがレジ金を盗んでいたという驚愕の事実が判明してしまう、というなんとも苦い結末に終わるのですが、その時のゴタンダのセリフがとても印象的で象徴的だと思いました。

「スーパーヒーローであることは、案外、虚しいものです」


ヒーローというのは、どうやらヒーロー自身が充足されるものではないらしいのです。取り柄や何かに打ち込んだ経験を何も持たずにいたゴタンダが、初めて全力で誰かのために何かをしてあげたいという思いを持ち、それを共に叶えようと協力してくれる仲間を持ち、ようやく満ち足りた人生を歩み始めるのかと思いきやそうとはいかない…… でもここでゴタンダが「虚しさ」を噛み締め、それでもその後もハートビートマーケットで奮闘しながら生きていることが、見返りや自己欺瞞に囚われることなく、本当に誰かに愛を捧ぐことができた、本当の意味で「スーパーヒーロー」になることができた、だからピーマンの救いとなった証左となるような気がします。

あと「人間が人間を救済するからこそ救世主が生まれる」論とか中村嶺亜さんのアイドルグループのセンターとしての「空虚さ」の話とかもしたいんだけど、さすがにもうそうなってくるとスパヒロの感想ブログになるのでここでは割愛して二十面相の話に戻します


明智は「劇場型探偵」としてパフォーマンス的に推理を繰り広げていく、と劇中では分析されています。自分の推理を披露するために屋敷中の人間を集めたり、メディアの取材に積極的に応じたり。大衆の前に露出することで、アンチヒーローである二十面相に呼応するカリスマ的な「正義のヒーロー」として振る舞おうとしていたのです。

スパヒロの例から、真のヒーローになるための十分条件として「自身の充足を追い求めないこと」が挙げられるとするならば、明智の振る舞いは本当に「正義のヒーロー」と呼べるものでしょうか。「劇場型探偵」としての明智からは、自己犠牲の精神よりも、前述のような自己顕示欲の強さや、二十面相との攻防を推理ゲームとして、純粋に楽しんでいる様子さえ感じます。

また、わたしが思うに、正義のヒーローの一側面として「能動性・主体性のなさ」が挙げられます。悪役が悪さをしでかして、誰かが助けを求めなければ、ヒーローは動き始めることができません。アンパンマンばいきんまんがいるからこそ初めて正義のヒーローになりうる。スパヒロにおけるゴタンダの動機は、おそらくハートビートマーケットの人々とのかかわり合いの中から後転的に生まれたものであり、ゴタンダ自身の中に元よりあった独自の確固たる信念によるものではありません。

明智は、高価な仏像を誰にも気づかれずに偽物とすり替えておく、という自分の思い描いた筋書きで推理ショーを進めるためだけに、他人の家の物置に放火し、火災を装って人々の注目を逸らすという手段を取ります。前述の自己顕示欲の強さにも共通してきますが、自己演出にのみ執心した能動的かつエゴイスティックな奇行といえるでしょう。

また明智は、劇場型犯罪を演劇作品になぞらえ「あなたがた警察は、大衆と一緒に客席から芝居を観ていたのである」「探偵は初めから、常に舞台の裏側を見ている」とも発言しています。舞台裏というのは普通「見せられている」ものではありませんから、明智は能動的に舞台裏を「見に行っている」と解釈するのが妥当でしょう。

以上の例から明智は、強い自我やこだわりを持ち、それに即して行動し、能動的に推理ゲームに参加している人物であることが窺え、それは「正義のヒーロー」の定義からは乖離している。明智は完全な「正義のヒーロー」にはなりきれなかった。

徹底してヒーローになりきれなかったからこそ、明智は「自己を超越できない」愚かな人間から抜け出せないままだった。人間が普遍的に持つ変身願望を体現するかのように顔も名前も意のままにし、死への恐怖にすら打ち勝ち、明智自身に「おそるべき悪魔」と言わしめた二十面相には敵わなかった。

呼ぶ名を「遠藤平吉」から「明智小五郎」にすり替えて、それ以外は冒頭と一言一句違わぬセリフを繰り返すラストシーン。二十面相を追いかけ、二十面相の歩いた道をなぞり、変装や影武者という同じような手段を用いて騙し合う、所詮は二番煎じにしかなれなかった明智を象徴しているのかもしれない。暗転の中木霊する笑い声は、そんな明智に向けられた嘲笑だったのかもしれないなぁ、と思いました。

 

明智や二十面相が物語上で死んでしまったとしても、読者が存在する限り、それぞれの読者が新たに明智や二十面相を生み出すことで、彼らは乱歩の手を離れ永久に生き続ける、それが読書という作業なのである」というような語りでこの作品は幕を閉じます。これこそがこの作品が「朗読劇」として舞台で表現された意味だと思います。身体表現を極力削ぎ落とし、特に視覚イメージに余白を持たせることで、観客一人一人がまったく異なる映像を思い描く。

この営みはアイドルに対しても同じことが言えるのではないかと思いました。(特にジャニーズの)アイドルとは、脈々と継承される歴史に裏打ちされた「物語」である。彼ら個人個人がステージで輝くための努力や苦悩、数多の先輩から受け継がれてきた伝統、仲間やライバルとの関係性、そしてそれらに自分の人生を託し、あるいは重ね合わせ、アイドルを自己の語りの中に組み込んで消費していく我々オタク──。これら全てが「物語」である。

しかしながら、人間の人生を物語として語り尽くすことは不可能である。我々がアイドルの「物語」として見ている部分は、彼らの長い長い人生のほんの短い期間のほんの一側面でしかない。一側面でしかないがゆえにそれは不完全で不安定で、綻びの生じやすいものかもしれない。でもだからこそ、その綻んだ糸口からオタク達が自由にそれぞれの「理想のアイドル」像を結び、偶像としての彼らを愛することができるのではないか、とわたしは考えています。それらはもはや人間そのものではなく、作品であり商品であるから、アイドルをやっている人間とは切り離され、彼らの支配の及ばぬ他者の世界へと枝分かれしていく。

だからやっぱり、この台本を読んだ上で『「理想像」と「自己像」を近付けられるように活動していく』などと言っている矢花くんのことが全然わからないな〜と思っています。彼自身のことはわからないながらも、そこに、品川ステラボールのステージの上に存在しているのか、していないのか、わたしが今認識しているのは明智小五郎なのか、二十面相なのか、はたまた別の何かなのか、そんな儚い存在を演じるのが、名前も立ち姿もスペックも2次元みたいなのに、どこか身近にいるような気がしてしまう、そんな彼であった意義は大いにあったということは確かだと感じました。こんな濃密な初主演舞台を経験した矢花くんの、今後の表現活動が楽しみで楽しみでなりません。(とは言いつつも次の芝居仕事がドリボなのマジやるせねえ〜〜〜〜〜)(未だにジャニーズ特有のハチャメチャ脚本に馴染めない人)