コピー用紙

なにも知りません

アンチ・推し活

CREA秋号に掲載されているジェーン・スーさんの推し活エッセイを読んだ。

非常に共感する部分が多く、面白かったです。

昨今の「推し活」をやたらめったら称揚・肯定する風潮には賛同できない。「オタク」を自称し始めて10年ほど経ち、「楽しそうだね」「愛があるね」などというコメントを頂戴する機会も少なくない。楽しくなかったといえば嘘になるが、きっと世間が想像する「推し活」のような、キラキラしたいいことばかりでもなかった。これにはお金や時間や体力のやりくりが厳しいとか、欲しいチケットやグッズが手に入らなくてつらいとか、事務所や運営がカスでつらいとか、同担がムカつくとか、まあそういうことも含まれるが、もっと根源的な、推す者と推される者との一対一の関係性そのものの脆さと不均衡、もっと言えばそんな関係が本当に存在しているのかも怪しい、その虚無感と果てしない絶望に依るところが大きい。家族、友人、恋人、そのどれに向けるでもないこの感情は、たぶんわたしのように切実な意味で「推し」ができたことがある人以外にはまったく理解されないものだろう。遊びでやってんじゃねえんだぞ(遊びでやってください。趣味なので)。

 

好き勝手な解釈を図々しくも「発見」と名付け、理解が進んだと快哉を叫ぶ。過熱した推し活はライトな人権蹂躙だ。人を人とも思わなくなる瞬間が簡単に訪れる。愛情の多寡で言い訳できることではない。単なるファンとの違いはここだ。自他の境界線があいまいになる対象が推し。推す側の人間性が顕わになるのが推し活。

 

前述のエッセイの抜粋である。「ライトな人権蹂躙」という表現が非常に秀逸だが、その通り、推す側の獣のように暴れ回る「好き」の感情、その帰結として表出する言葉や行為の数々は暴力に他ならない。こちらが相手を「推し」と定義している限り、相手の人権を尊重し、対等な人間関係を構築することは困難を極め、一方的な搾取に終始する。推される側もまた、推す側の「好き」の感情を人質に取り、金銭などを「搾取」することができる(これはどちらかというと推される者本人が、というより事務所や運営がそういう態度に出ている場合も多いが)。だからといって、こちら側からの「搾取」が相殺されるとも思わない。推される者と推す者は、その関係性の構造として、互いに一方的である。

その相互コミュニケーションではない一方通行なところが居心地よく感じていた頃もあったが、そのスタンスもどうにも立ち行かなくなったということは以前もブログに書いた通り。いくらこちらが「アイドルは偶像だ!」と叫んだところで、その向こう側に我々と同じ、血肉の詰まった、支離滅裂で、一貫性も物語性もない、ただひとりの人間が存在していることは揺るがぬ事実である(その人間の存在を見せる/見せないはさておき)。

こんな不健康な関係とっととやめちまえというご意見はごもっともだと思う。それでもわたしは、この「ライトな人権蹂躙」なくして自分の人生をやっていくことが、今のところ到底できない。わたしは推される立場になった経験もないしあまりこういうことを言いたくはないが、どうやら推される側もまた、「ファンの皆さんの応援」がないとやっていけない、らしい。であれば、せめて歪なりにもどうにかこうにか折り合いをつけて、たとえ無茶だとわかっていても、ひとりの人間どうし尊重し合える方策を探そうとする態度くらいは示していかなければならない、と考えている。ここまで世の「推し活」を支持する人から見たらドン引き必至であろうネガティブな理屈を展開してきたが、わたしはここに、人間が人間に人間として向き合う誠実さ、誰かとつながる感覚の喜びや安心感、それを求める切実さといった類の、わずかばかりの希望を見出したいと思う。

 

「君に好きとかありがとうって言うのを許されたいんだ」

わたしの大好きな漫画の一番好きなセリフである。

「言葉というものは貧しく弱々しいものだ。あなたたちに与えるものは何もない。(中略)愛。これも与えることはできない、なぜなら、許しなき愛はありえないからだ。」

またこれは先日観劇した舞台で一番印象的だったセリフ。

わたしはわたしなりに誠実に、アイドルを愛していたい。好きなアイドルをやたらめったらに消費したくはないし、好きなアイドルがこの大量消費資本主義社会に取り込まれてゆくことを善と信じて疑わず、それを幇助するような真似はしたくない。たとえそれをアイドル自身に望まれたとしても。

アイドルたちの思い描く「応援してくれる、力になってくれる"普通の"ファン」にはなれなくて非常に申し訳ないと思っている。それでも許されたい。特別に何かをしてほしいわけではない。ファン1人1人を個として、立場としても信条としても決して理解し合うことのできないまったく異なる人間として、そっとしておいてほしいだけなのだ。少なくとも、アイドルが好きだという感情くらいしか共通点のない人々を「対等な関係」や「チーム」だなんだと言って自他の境界を曖昧にし、全体主義的な論調に強制的に取り込もうとするようなことはしてほしくはなかった。時間を忘れさせてくれるような素晴らしいエンターテイメントを提供する側の人に「いつまでもあると思うな」と言われたくはなかった。それは感情を人質に取った搾取で恐喝だ。

他のメンバーが応援を求める中、ただ等身大の自分を呈示してくれたあなたに、この世で怖いものは「マジョリティ」だと答えたあなたに救われていた。こちらが都合よく拡大解釈した勝手な期待であることは重々わかっている。ただ、あなたのそういう振る舞いに救われている人間がいるということは知っておいてほしかった。いや、これも多分「知っていてくれればこんなことは言わなかったはずだ」というわたしの思い上がりでしかない。醜い。

彼らが今より大きな「応援」の声を必要としていることは事実なのだろう。わたしだって、然るべき形で好きなアイドルが大勢から賞賛されることはとてもうれしい。でもその賞賛を掴み取るのは彼ら自身の才能と努力によってであって、ファンの「応援」の力ではない。アイドルは皆すぐ「ファンの皆さんのおかげで」と言いたがるが、ファンがアイドルに施してやれることなど何もないとわたしは思う。アイドルの輝かしい唯一無二の才能が、どこぞの誰とも知れぬ、自分の行いをよいことだと信じて疑わぬ「善良な」ファンの醜い承認欲求にまみれさせられることに、わたしは憤る。

だから、ファンのことなど顧みることなく、その才能と思索の断片を、ほとばしる自我、自己顕示欲とともに浴びせかけてほしいのだ。自分はここにいるのだとただただ叫び続けるあなたは本当に本当に美しい。そしてこれは本当にわたしの愚かなところでもあるのだが、そうして強大な自我と闘いながらも、それでも他者であるファンを思い、不器用ながらも交流しようと無邪気な澄んだ目を向けてくれる優しいあなたがいっそう、どのアイドルよりも綺麗に見える。前述の言葉もその優しさがゆえのものだったのだろう、とも思っているし、そこもひっくるめて好きになってしまった以上、向こうの言葉で傷つくことはある程度予測がついていた。途方もない数の人間からの言葉で傷ついてきたであろうアイドルに比べれば気にするのも馬鹿馬鹿しいくらいの傷かもしれない。それでもわたしは痛い。苦しい。

わたしの幸せも、苦しみも、最終的にはわたしが1人で引き受けなければならないものであるように、アイドルの夢の実現も、さまざまな重圧も、アイドル本人が引き受けなければ仕方がない。それを理解した上で「俺たちを利用して幸せになってください」とファンに呼びかけるアイドルが存在することを今夏知り、非常に感銘を受けた。しかし不思議なことに、わたしの特別は彼ではなく、あなたなのだ。明確な理由は未だ言語化に至っていない。ただわたしは、あなたを見て、あなたに救われ、あなたを好き勝手に解釈することでしか生きていけない。あなたを握りしめた手に血が滲んでも、まだしばらくはあなたを手放すことができない。