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なにも知りません

J31Gate 第21回「数」掲載歌解説

遅ればせながら、J31Gate 第21回「数」発行おめでとうございます。今回も2首掲載していただきました。

 

063 ジャンク品の玉座の上したり顔「王子」と呼ぶのは少しくやしい

"八"王子出身であることを日頃から公言している矢花くん。また、たびたび中古で手に入れた楽器を自ら改造して使用している矢花くん。

八王子といえばどデカいリサイクルショップの複合店があることで有名ですが(そうなん?)、そんな生まれの土地柄のせいか、キラキラのジャニーズアイドルには似つかわしくないはずの、庶民的でノスタルジーさえ感じるような場所もなんだかしっくりきてしまう。かと思えば、その中古の楽器をお供に、ステージ上では誰よりも目を惹く光輝くパフォーマンスを見せてくれる。そんな彼の唯一無二で独特な佇まいを詠みました。

今年2月、突如として「月曜から夜ふかし」の街頭インタビューに地元八王子から出演を果たし、ファンを騒然とさせた矢花くん。その時見せた照れ隠しのような、してやったりのドヤ顔のような、何とも言えないマスク越しの笑顔が今でも脳裏に焼きついて離れません。それすらも彼の思惑通りなのかもしれないと思うとたまらなくむず痒い気持ちになりますが、なんだかんだでそんなところも含めて好きです。

(ただ本当にこのご時世何が起きるかわからないので、早いとこご実家を出ていただけると誠に勝手ながらオタクは安心します……)

 

 


064 トリセツは読まないタイプとは言えど知りたくて5150

Johnny's webにて連載中の7 MEN 侍のブログ『異担侍日報〜侍ふ。〜』。10月13日に更新された水曜vol.26では、矢花くんが使用しているギターのマルチエフェクターについて解説してくれています。

普段は素人も多い我々に向けて、伝わりやすい例えを探したり、手描きの図解を作成したりととてもわかりやすく解説しようと努めてくれる矢花くんですが、この回では珍しく、専門用語や具体的な設定数値を用いて超・超・超詳細に解説を行っています。ギターを弾かないわたしから見ればマジでただの暗号です。正直後半は薄目で斜め読みしました。ごめんなさい

隙自語ですがわたしは普段から家電などの取扱説明書をちゃんと読むことがほぼなく、「とりあえず触ってみればわかるっしょ」と思ってしまうタイプでして。それと同様に、趣味の音楽や美術鑑賞の際も「理屈より何より自分が見ていいと感じたものはいい!」と考えてしまう方なんですよね。理論や背景の文脈がわかればより一層面白いというのもとてもわかるのですが、何せ勉強が苦手なもので……

音楽について知識が増えると世界が広がって面白いよ、と日頃から我々に呼びかけ、いろいろなことを教えてくれる矢花くん。その全てを理解してあげられないことに申し訳なさを感じつつも、彼の表現の根幹に関わる大切な部分をたくさん開示してくれるのが嬉しくもあり、「そんなに何もかも明け透けにしなくてもいいよ」という思いもあり……。

真面目に勉強する気はないけど彼の見ている世界に少しでも近づきたい。身勝手で浅はかで愚かなわたしは、今日も追いすがるような気持ちで、彼の敬愛するヴァン・ヘイレンのアルバム『"5150"(フィフティーワン・フィフティーと読むそうです)』を再生してしまうのでした。

5150

5150

余談ですが、上の動画はヴァン・ヘイレンのギタリスト、エディ・ヴァン・ヘイレンが亡くなった時に更新されたもの。本人曰く「有名人が亡くなってあんなに悲しい気持ちになったのは初めてで、何日か落ち込んだ」のだそう。ジャニーズJr.という、自分の思想を自由に発信できる手段の限られた立場でありながら、ミュージシャンへの心からのリスペクトのこもった、とても粋な哀悼の意の示し方だと思います。

 

 

 

うーん難しかった!グループ名とか誕生日とか887とかありきたりだな〜と思って避けようとするあまりめちゃくちゃ前提知識が必要なわかりづらい歌になってしまった気がする…… 解説がなくても、詠まれている対象を知らなくても、詩的・文学的な美しさを楽しく鑑賞できる歌を目指していきたいところ。

アンチ・推し活

CREA秋号に掲載されているジェーン・スーさんの推し活エッセイを読んだ。

非常に共感する部分が多く、面白かったです。

昨今の「推し活」をやたらめったら称揚・肯定する風潮には賛同できない。「オタク」を自称し始めて10年ほど経ち、「楽しそうだね」「愛があるね」などというコメントを頂戴する機会も少なくない。楽しくなかったといえば嘘になるが、きっと世間が想像する「推し活」のような、キラキラしたいいことばかりでもなかった。これにはお金や時間や体力のやりくりが厳しいとか、欲しいチケットやグッズが手に入らなくてつらいとか、事務所や運営がカスでつらいとか、同担がムカつくとか、まあそういうことも含まれるが、もっと根源的な、推す者と推される者との一対一の関係性そのものの脆さと不均衡、もっと言えばそんな関係が本当に存在しているのかも怪しい、その虚無感と果てしない絶望に依るところが大きい。家族、友人、恋人、そのどれに向けるでもないこの感情は、たぶんわたしのように切実な意味で「推し」ができたことがある人以外にはまったく理解されないものだろう。遊びでやってんじゃねえんだぞ(遊びでやってください。趣味なので)。

 

好き勝手な解釈を図々しくも「発見」と名付け、理解が進んだと快哉を叫ぶ。過熱した推し活はライトな人権蹂躙だ。人を人とも思わなくなる瞬間が簡単に訪れる。愛情の多寡で言い訳できることではない。単なるファンとの違いはここだ。自他の境界線があいまいになる対象が推し。推す側の人間性が顕わになるのが推し活。

 

前述のエッセイの抜粋である。「ライトな人権蹂躙」という表現が非常に秀逸だが、その通り、推す側の獣のように暴れ回る「好き」の感情、その帰結として表出する言葉や行為の数々は暴力に他ならない。こちらが相手を「推し」と定義している限り、相手の人権を尊重し、対等な人間関係を構築することは困難を極め、一方的な搾取に終始する。推される側もまた、推す側の「好き」の感情を人質に取り、金銭などを「搾取」することができる(これはどちらかというと推される者本人が、というより事務所や運営がそういう態度に出ている場合も多いが)。だからといって、こちら側からの「搾取」が相殺されるとも思わない。推される者と推す者は、その関係性の構造として、互いに一方的である。

その相互コミュニケーションではない一方通行なところが居心地よく感じていた頃もあったが、そのスタンスもどうにも立ち行かなくなったということは以前もブログに書いた通り。いくらこちらが「アイドルは偶像だ!」と叫んだところで、その向こう側に我々と同じ、血肉の詰まった、支離滅裂で、一貫性も物語性もない、ただひとりの人間が存在していることは揺るがぬ事実である(その人間の存在を見せる/見せないはさておき)。

こんな不健康な関係とっととやめちまえというご意見はごもっともだと思う。それでもわたしは、この「ライトな人権蹂躙」なくして自分の人生をやっていくことが、今のところ到底できない。わたしは推される立場になった経験もないしあまりこういうことを言いたくはないが、どうやら推される側もまた、「ファンの皆さんの応援」がないとやっていけない、らしい。であれば、せめて歪なりにもどうにかこうにか折り合いをつけて、たとえ無茶だとわかっていても、ひとりの人間どうし尊重し合える方策を探そうとする態度くらいは示していかなければならない、と考えている。ここまで世の「推し活」を支持する人から見たらドン引き必至であろうネガティブな理屈を展開してきたが、わたしはここに、人間が人間に人間として向き合う誠実さ、誰かとつながる感覚の喜びや安心感、それを求める切実さといった類の、わずかばかりの希望を見出したいと思う。

 

「君に好きとかありがとうって言うのを許されたいんだ」

わたしの大好きな漫画の一番好きなセリフである。

「言葉というものは貧しく弱々しいものだ。あなたたちに与えるものは何もない。(中略)愛。これも与えることはできない、なぜなら、許しなき愛はありえないからだ。」

またこれは先日観劇した舞台で一番印象的だったセリフ。

わたしはわたしなりに誠実に、アイドルを愛していたい。好きなアイドルをやたらめったらに消費したくはないし、好きなアイドルがこの大量消費資本主義社会に取り込まれてゆくことを善と信じて疑わず、それを幇助するような真似はしたくない。たとえそれをアイドル自身に望まれたとしても。

アイドルたちの思い描く「応援してくれる、力になってくれる"普通の"ファン」にはなれなくて非常に申し訳ないと思っている。それでも許されたい。特別に何かをしてほしいわけではない。ファン1人1人を個として、立場としても信条としても決して理解し合うことのできないまったく異なる人間として、そっとしておいてほしいだけなのだ。少なくとも、アイドルが好きだという感情くらいしか共通点のない人々を「対等な関係」や「チーム」だなんだと言って自他の境界を曖昧にし、全体主義的な論調に強制的に取り込もうとするようなことはしてほしくはなかった。時間を忘れさせてくれるような素晴らしいエンターテイメントを提供する側の人に「いつまでもあると思うな」と言われたくはなかった。それは感情を人質に取った搾取で恐喝だ。

他のメンバーが応援を求める中、ただ等身大の自分を呈示してくれたあなたに、この世で怖いものは「マジョリティ」だと答えたあなたに救われていた。こちらが都合よく拡大解釈した勝手な期待であることは重々わかっている。ただ、あなたのそういう振る舞いに救われている人間がいるということは知っておいてほしかった。いや、これも多分「知っていてくれればこんなことは言わなかったはずだ」というわたしの思い上がりでしかない。醜い。

彼らが今より大きな「応援」の声を必要としていることは事実なのだろう。わたしだって、然るべき形で好きなアイドルが大勢から賞賛されることはとてもうれしい。でもその賞賛を掴み取るのは彼ら自身の才能と努力によってであって、ファンの「応援」の力ではない。アイドルは皆すぐ「ファンの皆さんのおかげで」と言いたがるが、ファンがアイドルに施してやれることなど何もないとわたしは思う。アイドルの輝かしい唯一無二の才能が、どこぞの誰とも知れぬ、自分の行いをよいことだと信じて疑わぬ「善良な」ファンの醜い承認欲求にまみれさせられることに、わたしは憤る。

だから、ファンのことなど顧みることなく、その才能と思索の断片を、ほとばしる自我、自己顕示欲とともに浴びせかけてほしいのだ。自分はここにいるのだとただただ叫び続けるあなたは本当に本当に美しい。そしてこれは本当にわたしの愚かなところでもあるのだが、そうして強大な自我と闘いながらも、それでも他者であるファンを思い、不器用ながらも交流しようと無邪気な澄んだ目を向けてくれる優しいあなたがいっそう、どのアイドルよりも綺麗に見える。前述の言葉もその優しさがゆえのものだったのだろう、とも思っているし、そこもひっくるめて好きになってしまった以上、向こうの言葉で傷つくことはある程度予測がついていた。途方もない数の人間からの言葉で傷ついてきたであろうアイドルに比べれば気にするのも馬鹿馬鹿しいくらいの傷かもしれない。それでもわたしは痛い。苦しい。

わたしの幸せも、苦しみも、最終的にはわたしが1人で引き受けなければならないものであるように、アイドルの夢の実現も、さまざまな重圧も、アイドル本人が引き受けなければ仕方がない。それを理解した上で「俺たちを利用して幸せになってください」とファンに呼びかけるアイドルが存在することを今夏知り、非常に感銘を受けた。しかし不思議なことに、わたしの特別は彼ではなく、あなたなのだ。明確な理由は未だ言語化に至っていない。ただわたしは、あなたを見て、あなたに救われ、あなたを好き勝手に解釈することでしか生きていけない。あなたを握りしめた手に血が滲んでも、まだしばらくはあなたを手放すことができない。

オタク、短歌を詠む

ジャニーズアイドルにまつわるWEB短歌集『J31Gate』さん 第20回に、拙作を2首掲載していただきました。

以前から遠巻きに楽しそうだな〜と眺めていた企画だったので、今回初めて参加できて本当に嬉しいです!

 

野暮とは知りつつ、以下解説です。

020 夜明けが連れてきたきみは彼は誰の黒と光芒の白を抱いて

言わずもがな、2首とも矢花くんを思って詠んだ歌になります。今回はアイドル名を伏せた状態での発表でしたので、もうちょっとそれを生かした作り方ができればよかったな……というのは反省点のひとつ。

この歌、1ヶ月遅れの誕生日祝いの気持ちも込めた歌になりました。2000年8月10日の明け方に生まれたという矢花くん。そのことにちなんで、「黎」というとっても綺麗で素敵な名前をご両親から授かっています。矢花担は全員もれなく彼の名前が大好き!(クソデカ主語)そんな同担の皆さんにはとっくにご周知でありましょうが、この「黎」という漢字、訓読みで「くろ」と読み、「黎明」のように"夜明け前の暗がり"を指して使われることが多い漢字です。

そんな名前に「くろ」を背負った矢花くんの、7 MEN 侍におけるメンバーカラーはなんと正反対の「白」。グループ加入時に青か白の2択で自ら白を選んだのだとか。

「色」がテーマでメンバーカラーを詠み込むというのはベタベタのベタではありますが、やはりこのちぐはぐさに矢花くんらしさがとても表れているような気がして、詠まずにはいられませんでした。

YouTubeではグループのMC&ツッコミ担当として、容赦なく浴びせられるメンバーの愛あるボケを1つ残らず丁寧にさばいたかと思えば、ステージではヘドバン、デスボ、歯ベース、しまいには自分の楽器すら放り出して縦横無尽に大暴れ……とおおよそジャニーズらしからぬ激しいパフォーマンス。長尺1人喋りで大好きな楽器や音楽の話をたくさん聞かせてくれるISLAND TVや、「思想が強い」と揶揄されるほどのハイカロリーなブログからは思慮深さや繊細さ、ちょっぴりの卑屈さが感じられるのに、誕生日をサプライズでお祝いされて思わず涙が出てしまうピュアさも持ち合わせている。そんな見ていて飽きない二面性の数々を、「黒」と「白」の2色で表現できたらなと思いました。

「彼は誰」は「かはたれ」と読み、相手の顔がよく見えず、「あなたは誰ですか?」と問いかけなければならないほど薄暗い明け方を意味しています。ちなみに夕暮れ時は「誰そ彼/黄昏(たそかれ)」といいます。

「『普通』ってなんだろう」「『知る』ってどういうことだろう」「『運命』を信じますか?」など、しばしばブログで我々に問いを投げかけてくれる矢花くん。どれも抽象的でひとことで答えるのは困難なトピックばかりですが、それぞれの価値観や生き方が色濃く表れます。これすなわち、「あなたはどういう人間ですか?」「あなたは誰ですか?」と、暗闇の中から問いかけられているのと同義であるような気がします。逆にこちら側から、「矢花くんってどういう人なんだろう」「何を考えているのだろう」と近寄っても、その全貌が見えてくることはない。矢花くんが纏う「黒」は深淵の黒でもあるのです。

夜明けが来ると朝日が昇ります。「ネガティブ」だなんだと自分では言っていても、「たくさんの人に音楽をもっと楽しんでほしい」「ファンの人々にいい影響を与えられたら」というアイドルとしての信念は、いつでも頑固なほどにブレない矢花くん。そんな矢花くんの澄み切った芯の部分を、空を真っ直ぐに照らす白い朝日の光と重ねて詠みました。「黎」の名前も"光線"を表す「Ray」と発音が似てますしね。

 

021 「共感覚ってほんと?」色を音に変換するエフェクターが問う

共感覚とは、文字に色がついて見えたり、音に色を感じたりする現象です。わたし自身共感覚を持っている……と断言できるほどではなく、どちらかと言えば自分の見たもの、感じたものをそうして別の概念として変換して感じ取ることができる人に憧れがあります。また、そうして感じ取ったものを再変換して、言葉や、絵画や、音楽などとしてアウトプットできる人たちには、少なからず共感覚的な感性が備わっているのかな、と感じるし、そういう人のことを本当に尊敬しています。そんな共感覚の「変換」の機能を、矢花くんがいっとうこだわりを持っている楽器のエフェクターに重ねて詠んでみました。

矢花くんの奏でる音を聴くたびに、これは彼が五感をフルに活用して、命をかけて、見て、聴いて、触れて、感じてきたものすべてが、変換・圧縮・加工されて詰まっているのかもしれないなぁ、と思う。そんな「音楽」という唯一無二で強大な武器を持っているにもかかわらず、さらに言葉を尽くしてどうにか我々に自分を理解してもらわんとしているのがやはり面白い人だなと思うし、それは彼なりの優しさなのではないだろうか。であれば、たとえわたしが共感覚を持ち合わせていなくても、エフェクターの扱いなどまるで何もわからなくても、せめてできる限り誠実に、その表現に向き合う態度は示していきたい。そんなわたしの気持ち。

問われている側が矢花くん、とも解釈できるかもしれませんね!矢花くんもわたしも多元的解釈ができる作品が好きなタチのようなので、これ以上の言及は避けようと思います。どんな印象を受けたか、どのように解釈されたか、後学のためにも教えていただけると嬉しいです!

歌の後半がちょっと説明くさいな〜と思ったのですが、矢花くんの理屈っぽさを表現するためにあえてということd嘘です!!!!!!!!!!わたしの力不足に他なりません!!!!!!!!!!精進します!!!!!!!!!!

 

今まで何かを創作して、それを作品として世に出すというのがあまり得意ではなく(ブログは作品というより掃き溜めって感じなので……)、だからこそ、クサいセリフも音楽に乗せて全力で言葉にすることができるアイドルが好きだった節もあるのですが、短歌を作るのは拙いながらもとっても楽しかったです。アイドルには、特に矢花くんには、ファンである我々にも何かを語らせる、思わず何かを表現したくなる、そんな気持ちを引きずり出すパワーがあるのだろうなと改めて思いました。

素敵な企画に参加させていただきありがとうございました!反省点も多々見つかったことですし、またどこかの機会にリトライしに来ます。

救済と存在肯定の間で

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現場で矢花くんを目にするたびに、「あぁ、思ってるより"普通の"男の子だなぁ……」と感じる。

別になんかガッカリしてるとか、他意があるとかそういうわけではなく、ただ純粋な「存在」を感じるというか、あぁ、「居る」なぁ……と思う。言語化が難しいが、この感覚は意外と大事なんじゃないか、忘れないでいた方がいいんじゃないかと最近は思うようになってきた。自己像と理想像を擦り合わせたいなどと言う矢花くんのことだから、尚更……(いつまでそのブログの話引きずってるんですか?)

先日のサマステライブも割とそう思いながら見ていた。純粋にライブとしての楽しさが圧倒的に勝っていて、思っていた時間こそ短かったが。ソロコーナーで夕暮れ時のようなオレンジの照明をバックに、ギター1本担いで上手に立つ矢花くんを見ながら「あーーー……『矢花くん』だなぁ……」とぼんやりと思っていた。ほかの曲ではだいたい暴れてました(隣の嶺亜担のお姉さん本当にすみませんでした)。どちらも幸せな時間でした。

 

サマステ公演中になにわ男子のデビュー発表があり、それに触発されてデビューへの決意を新たにしていたのは7 MEN 侍とそのファンも例外ではなかったようで。それはジャニーズ事務所に身を置く以上仕方ないことなのは理解しつつも、あの事務所における「デビュー」のシステムや価値に未だ懐疑的なわたしは、その風潮に大手を振って乗っかることができずにいる。数字や流行に左右されないで、自分たちにしかない武器で自分たちの表現を真摯に突き詰めようとしている7 MEN 侍の姿勢がすごく好きだ。「デビュー」がそっくりそのまま「彼らの音楽CDが発売される」ことだけを意味するのならこんなに嬉しいことはないが、そのために彼らが本当にやりたいことを一部でも諦めなければならないのだとしたら、そんな「デビュー」に何の価値があると言うのだろうか。

自我を持ったアイドルが好きだ。自我を持ったアイドルが、その自我と大衆にまなざされることによってその存在を可能にする「偶像」としての在り方の狭間で、それでもどうにか自分を表現しようと、自分はここにいるのだと声をあげようともがき続けているのが、とても泥臭くて美しいと思う。以前別の好きなアイドルの事務所の社長が、「自己を抑圧して抑圧してそれでもはみ出てしまうのが個性」というようなことを言っていて、その意味が最近になって少しわかってきた。

「多くの人を笑顔にできるように」「ファンの皆さんの応援に応えられるように」、そういう奉仕精神を持ってアイドルをやっている人たちも本当に素晴らしいと思う。でもわたしは、人のために己を躊躇なく犠牲にできるような高尚な人に見合うだけの「応援」をしてはいないので、こういうアイドルを見ていると申し訳なくなってしまう。

いわゆる「推し」と呼ばれる立場の人に対して「応援してる」って言えない。これは今に始まったことではなく数年間ずっとそう。すごく恩着せがましい感じがする。わたしは自分が見たい・聴きたいものを得るために一方的に金を払っているだけ、という意識が強い半分、意図的にそう意識するようにしている半分。

以前好きだった人にも初めは同じように思っていたけど、今思えば月日と経験を重ねるごとにどんどん傲慢になっていって、最終的には完全にそれが裏目に出て離れてしまったような気がする。「これだけ『応援』してきてやったのに」──……。そうなるのが怖いからより「応援」という言葉が恐ろしくなったというのもある。ジャニーズJr.のオタクなんて「応援」して、「応援」の快楽に酔ってなんぼだろうに。

「自担」もこれに近い理由で呼べない。わたしは彼の何も「担当」してないし、彼もわたしの何かを「担当」してもらってるつもりはない。できるだけ「好きなアイドル」と呼ぶようにしている。長いから何か他にいい呼び方があるといいんですけど。

とにかくわたしはわたしの「応援」の最終的な責任を自分で引き受けられない。「応援」などと言い訳して彼らに自分の努力を身勝手に背負わせたくない。彼らが「応援」──具体的に言えば、グッズの売り上げや、YouTubeの再生回数や、SNSの拡散力といった、彼らが商業的に利益をもたらす根拠となる数字──を必要としていることは理解はしている。綺麗事かもしれないが、よりよいものを生み出し続けていればそれに見合った数字は後から勝手についてくると思うし、そもそもその数字が信憑性のあるものなのか、彼らの魅力は果たしてその数字で正しく評価されているのかは、消費者の立場として冷静に吟味していかないといけないと思う。数字をあげることに心血を注いでいるオタクは別に好きにしたらいいと思うし、それはそれですごいことだと思ってるけど、手放しで純粋に「彼らのために」と盲信的に数字を上げようとしているオタクを見ると「危ういな」と思う。

そういう思想のオタクなので、ブログで連日「応援してください」と言われるのは、正直ちょっと苦しかった。わたしのような考え方は彼らの邪魔にしかならないのかもしれない。わたしのようなオタクは客として認められないのかもしれない。嶺亜さんなんかは「(手段は)何でも良い」と言ってくれていて、すごく彼の優しさとフォロースキルとこれまでのキャリアの長さを感じられたけど、それでも。

そんな中で唯一、「古い常識を常に疑いアップデートしていく」ことと、「大きな組織や枠組みの中で相対的に形作られるのではない、あるがままの自分」とを表明してくれた矢花くんは、わたしのようなオタクにとってすごく救いだったし、矢花くんが矢花くんである所以がここに全て詰まっていると思った。

初回のブログで触れたように、「ジャニーズの異端児」と称されることに安堵している様子に「よかったね」と思いつつも違和感もあって、君たちはそんなところに収まるタマじゃないだろ!?!?みたいな謎の期待を抱いている節もあって、他のメンバーが「この世界でてっぺんを獲りたい」と言う中でもまず「等身大の自分」の存在を主張してくれたことが嬉しかったし、なおさらそんな彼のことは競争社会の数字なんかで測れるものではないと思う。そうは言っても歴史が長くしがらみの多い大手事務所に所属していることには変わりはないので、ストレートに発信できることに限りはあるのだろうが、その片鱗を感じられただけでも嬉しかった。

あとシンプルに現役のジャニーズJr.が「古い常識をアップデートしていく、そういう時代になっている」と明言しているのがシンプルに衝撃だった。そんなことを言われたらまた信頼してしまう。別にわたしの思索なぞ向こうは知ったこっちゃないだろうけど、わたしまで存在を認められた気持ちになってしまった。矢花くんはわたしのようなファンと呼べるのか怪しい存在ですら置いて行ってはくれないんだ、その優しさが眩しくて美しくて愛おしくて痛くて苦しい。

サマステの「ここに」サビ前の「ここにいる!」でまっすぐ前に手を差し伸べた矢花くんを、幸か不幸か真正面で目の当たりにしてしまった瞬間がずっと頭から離れずにいる。わたしもあるがままのアイドル・矢花黎くんの存在をできる限りで認識できるようにありたいと思うし、そのための「応援」……とまではいかずともわたしなりの「努力」はしてみてもいいかもしれないな、と思わせてくれる。「僕の世界を広げる」ため、「新しい世界を見せ」るため。なんて優しい言葉選びだろうと思った。どちらかと言えば新しい世界をお見せいただいてるのは私の方だと思うが、これからも新しい君をたくさん見せてくれたら、わたしは変わらずそれを元手に勝手にいろいろ考えると思うので、そういう感じでお願いします(?)。

ひとまずは、新しく「21歳」の肩書きを得た君を見て、嬉しいなぁ、愛しいなぁ、と思えていることの喜びを噛み締めています。お誕生日おめでとうございました。

モボ朗読劇『二十面相』〜遠藤平吉って誰?〜 感想 あるいはアイドル物語論

テメーいつの話をしてんだよという感じですが、品川から帰ってきた途端バイト先の人事がしっちゃかめっちゃかになっており、MPが全てそちらに割かれているうちに1ヶ月以上経っていました。Twitterはできるんだけどね……ブログに文章を完結させてまとめるの本当に難しいし気力を使う。なのでテンションも内容もブレブレです。以上言い訳でした

 

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とはいえとにかく本当に楽しい9日間でした。昨秋同じく7 MEN 侍から本髙さん今野さんがキャスティングされた『幸福王子』が本当〜〜〜にめちゃくちゃ良くて、今までの人生で観劇してきたすべての舞台作品の中で1、2を争うほど好きだったので、同じスズカツさん吾郎さんタッグで矢花くんが座長を務めると知った時は本当に気を失いそうになるほど嬉しくて、バイト先のバックヤードでまず出すことのない大声を出したことを今でも覚えています。

めちゃくちゃ楽しみだった反面、スタートの期待値が大きすぎてそれを超えてこなかったらどうしようとか、逆にこれが刺さりすぎて、たとえば極端な話「矢花くんはアイドルなんか辞めて俳優業に転向すべき‼️」みたいに、彼に求めることが、彼に向ける眼差しが大きく変容してしまったらどうしようとか、観るのが怖くなっていた時期も正直ありました。でも初日公演を観てそんなもんは完膚なきまでにブッ飛ばされました!いち舞台作品としてもちろん非常に完成度が高く、かつ俳優・矢花黎の卓越したポテンシャルの覚醒の先にアイドル・矢花黎のさらなる可能性を存分に感じられました。杞憂も杞憂!超楽しかった〜〜〜!!!!!!!!!!!

さすがに10回以上観たら途中で飽きてきて寝るかな〜とか思ってましたがそれもびっくりするくらいなかった。毎公演新たな発見があって、毎公演オーロラのように見せる色を少しずつ変える矢花くんの、艶やかでいてサイケな、品があるのにどこかタガが外れた声に聴き入りっぱなしでした。とにもかくにも初座長本当にお疲れ様でした。このご時世で最後まで走り抜けられて本当によかった。

 

矢花くんがカテコで何度か話していた通り、とても特殊なシナリオ構成の舞台だったと思います。1本道のストーリーが段階的に展開していくわけではなく、少年探偵団シリーズのさまざまなエピソードを継ぎ接ぎすることで、明智小五郎、二十面相(もとい遠藤平吉)、小林少年、それぞれの人物像が徐々に炙り出される、という形式をとるものでした。

原作を知らなくても楽しめるとのことでしたが、わたしは個人的に原作読んでから行ってよかったな〜と思いました。何せ抜粋、抄録、サンプリングで断片的にシーンが登場するので、いくつかでも「これあのエピソードのあのシーンだな〜」というのがわかれば、この独特な脚本にもついて行きやすかったかなと思います。結局セリフを一言一句違わず覚えてしまうくらいには繰り返し観たので、今思い返せば別に意味なかったような気もしますが……(どっちやねん)

音楽担当の大嶋吾郎さんがパンフレットで、この作品の音楽について「サウンドコラージュ」と表現していたのが印象的だったのですが、脚本についても同様だったと思います。シナリオコラージュとでも言うべきでしょうか。乱歩が、というよりはスズカツさんが、この場面をピックアップして切り取って呈示することで登場人物たちをどのように捉えていたのかが、セリフの言葉選びや演出だけでなく、脚本の組み立てや構造そのものからも窺えるように思いました。幸福王子の時もそうでしたが、児童文学の皮をかぶっていながらエッジの効いた毒気を孕んだ原作から、原作の良さを損なわないままもう一歩踏み込んだところまで描いてくれているようで、スズカツさんの脚本がとても好きです。

 

幸福王子との共通項としてもう1つ、「生演奏の音楽朗読劇」であることが挙げられますが、二十面相でもこの要素が存分に生かされていてとっても楽しかったです。矢花くんの真骨頂とも言うべきベースとボーカルが炸裂するロックなオープニングは言わずもがなではありますが、やはり期待をはるかに超えてかっこよかったし高揚しました。開始5分経たずしてチケット代元取ったな……と思った。あと今回はクラシックの楽曲がいくつかサンプリングされていたのが個人的には好みでした。別れの曲とかロミオとジュリエットとか。

歌唱パートに限らず、朗読される言葉ひとつひとつの音の響きを楽しむような演出が多いのも、幸福王子から引き続きスズカツさん演出の好きなところでした。前述の通り冒頭からクライマックスまでリフレインされ続ける「明智は二十面相、二十面相は明智……」の印象的なフレーズ、歪んだギターとヴァイオリンをバックに「変装、予告状、屋敷、地下室……」と作品のキーワードがさまざまな声色で代わる代わる読み上げられるシーン、怖いもの知らずで楽観主義の小林少年が「多分、うまくいくだろうと思います!」と何度も繰り返すシーン(豊田くんかわいかった……)などなど…… 朗読される声や言葉すらも音楽という時間的で大きな流れを構成する一部として捉えられ、読み上げられるテキストを文学として味わうに限らず、ただ純粋に鼓膜を震わせる「音」として楽しませるような演出意図を(勝手に)感じています。

今作でその最たる例はやはり、影武者のくだりの後の高笑いのシーンでしょう……!!!推しの高笑いの演技、全オタクの夢だと思うんですけど(クソデカ主語)それが生で聴けるだけでなく、なんとその声がサンプリングされて、吾郎さんのDJプレイに使われるんですよね。そんなことある!?!?超カッコいいクラブミュージックに爆音で乗せられる好きなアイドルの狂った笑い声、朗読台を降り、見てて心配になるほど目をかっ開いて舞台を転がり回る好きなアイドル、回を追うごとにノリノリになる音楽担当のお二方…… いやこんな楽しい空間ある!?!?!?!?ちなみに友人にこのシーンの話をしたところ、「悪趣味な金持ちの遊びみたいだね」って言われました。このシーン見るのに諭吉出してお釣りが来るんだったらめちゃくちゃ安いような気がしてきた

 

メタ的な視点で申し訳ないですが、公演期間中「ジャニーズJr.が」「朗読劇で」この作品を演じる意味をずっと考えていました。幸福王子を観た時から、スズカツさんの脚本はこれらをかなり意識して、原作ありきの作品でも半ば当て書きのようなキャラクター作りがなされているように個人的には思っています。

幸福王子で本髙さん演じる王子は「自分が幸せに暮らすことが、この国が平和である象徴だった」と言って、塀の中で守られたまま、「自分は幸福だ」と思い込んで人としての生涯を終え、国民に担ぎ上げられるがまま街の広場の銅像となります。見晴らしのいい広場から貧困に苦しむ国民の姿を見つける頃には、自分の足は台座に縫いとめられ助けることすら叶わない──。その姿はある時は広告塔として、ある時は客寄せパンダとして、ある時は無知で無垢な若者の象徴として、あるいはプロパガンダとして、幼い頃から自分の意志とは関係なく、文字通り「偶像」として人々の関心を集め称揚されるジャニーズアイドルに重なるように思います。史上2人目の院進ジャニーズとしてグループのインテリ担当を一手に引き受ける知性と、それゆえか垣間見えるプライドの高さや傲慢さ、ある種の「拗らせ」感が、王子の役どころにハマっていたな〜と感じました。(個人の感想です。ディスってるつもりは毛頭ないです)

矢花くんに本髙さんとはまた別種の「拗らせ」が認められるのは、彼のブログを読めば言うまでもないでしょう。彼の場合、その根底に流れているのは「自己顕示欲」や「自己愛」と呼ばれるもののように思います。これもまったくディスっているつもりではなく、しがらみの多いであろう大手事務所に身を置くアイドルでありながら、自分の立ち位置を冷静に俯瞰し、その上でなお自己表現を諦めない矢花くんの姿勢が、わたしはとてもとても好きです。

作中では二十面相と明智のお互いに向ける強い執着や関係性について、「同性愛的」とすら表現されていました。また、「明智は二十面相、二十面相は明智……」のフレーズが象徴するように、全編を通して語られているのは「明智小五郎と二十面相は正義/悪の二項対立ではなく、似た者同士で表裏一体だったのではないか?」ということ。このことから、明智(二十面相)が二十面相(明智)へ向ける同性愛的感情は「自己愛」と解釈できるでしょう。二十面相という他者との推理合戦を通して自己と向き合おうとしている明智のその姿は、ブログを介して積極的にオタクと相互のコミュニケーションを図ろうとする矢花くんの姿勢と重なるような気もします。

 

「現代では落ち着いた所作から中年の印象を抱かれやすい明智だが、設定年齢は意外と若い」と劇中でも言及がありましたが、それを踏まえても矢花くんは設定年齢よりはるかに若い。これもまた、栗原さん演じる二十面相との対比になっていて、明智のカリスマ性の中に光る少年性にも近い危うさや脆さを感じられました。それまで「人殺しをしない」ことが彼の唯一最大の美徳であった二十面相が爆発による自死を選ぶことで、その美徳を過信していた明智を出し抜き逃れるシーンで物語が締め括られていることからも、明智は最後まで二十面相に一歩及ばない、すなわち「自己を超越できない存在」なのだなぁと思い、その人間臭さが愛おしくなります。

 

同時期に『SUPERHEROISM』というミュージカルが上演されていました。こちらも同じく7 MEN 侍から嶺亜さんと大光ちゃんが出演しており、矢花くんはなんと自身の公演期間中にわざわざ時間を作って観劇したそうです。律儀すぎるやろ

「自分の公演期間中にメンバーが芝居をしているところを観られてとても刺激を受けた」と、観劇当日のカテコで語っていたことに微笑ましさを覚えつつ、明智という役を背負った矢花くんはこの舞台を一体どのように受け止めたのだろう……と気になって仕方ありませんでした。

わたしはスパヒロは大阪公演を一度だけ観劇したのですが、タイトルの通り「ヒーローであるということはどういうことか」「人を救うとは、人に愛を送るとはどういうことか」を描いた作品だなと感じました。嶺亜さん演じるゴタンダは、愛とは何かを追い求める中でスーパーのアルバイトを通じて人との関わりを持ち、紆余曲折あって恋敵であったはずの大光ちゃん演じるピーマンの背中を押すため、自らが悪役を演じて、ピーマンが意中の相手であるチサちゃん(中村麗乃ちゃん)を助け出す、という作戦を立てます。演じているのは悪役ではありますが、ゴタンダは自己犠牲と博愛、奉仕精神をもって「正義のヒーロー」であろうとしたことが窺えます。結局ピーマンの恋は成就するどころか、チサちゃんがレジ金を盗んでいたという驚愕の事実が判明してしまう、というなんとも苦い結末に終わるのですが、その時のゴタンダのセリフがとても印象的で象徴的だと思いました。

「スーパーヒーローであることは、案外、虚しいものです」


ヒーローというのは、どうやらヒーロー自身が充足されるものではないらしいのです。取り柄や何かに打ち込んだ経験を何も持たずにいたゴタンダが、初めて全力で誰かのために何かをしてあげたいという思いを持ち、それを共に叶えようと協力してくれる仲間を持ち、ようやく満ち足りた人生を歩み始めるのかと思いきやそうとはいかない…… でもここでゴタンダが「虚しさ」を噛み締め、それでもその後もハートビートマーケットで奮闘しながら生きていることが、見返りや自己欺瞞に囚われることなく、本当に誰かに愛を捧ぐことができた、本当の意味で「スーパーヒーロー」になることができた、だからピーマンの救いとなった証左となるような気がします。

あと「人間が人間を救済するからこそ救世主が生まれる」論とか中村嶺亜さんのアイドルグループのセンターとしての「空虚さ」の話とかもしたいんだけど、さすがにもうそうなってくるとスパヒロの感想ブログになるのでここでは割愛して二十面相の話に戻します


明智は「劇場型探偵」としてパフォーマンス的に推理を繰り広げていく、と劇中では分析されています。自分の推理を披露するために屋敷中の人間を集めたり、メディアの取材に積極的に応じたり。大衆の前に露出することで、アンチヒーローである二十面相に呼応するカリスマ的な「正義のヒーロー」として振る舞おうとしていたのです。

スパヒロの例から、真のヒーローになるための十分条件として「自身の充足を追い求めないこと」が挙げられるとするならば、明智の振る舞いは本当に「正義のヒーロー」と呼べるものでしょうか。「劇場型探偵」としての明智からは、自己犠牲の精神よりも、前述のような自己顕示欲の強さや、二十面相との攻防を推理ゲームとして、純粋に楽しんでいる様子さえ感じます。

また、わたしが思うに、正義のヒーローの一側面として「能動性・主体性のなさ」が挙げられます。悪役が悪さをしでかして、誰かが助けを求めなければ、ヒーローは動き始めることができません。アンパンマンばいきんまんがいるからこそ初めて正義のヒーローになりうる。スパヒロにおけるゴタンダの動機は、おそらくハートビートマーケットの人々とのかかわり合いの中から後転的に生まれたものであり、ゴタンダ自身の中に元よりあった独自の確固たる信念によるものではありません。

明智は、高価な仏像を誰にも気づかれずに偽物とすり替えておく、という自分の思い描いた筋書きで推理ショーを進めるためだけに、他人の家の物置に放火し、火災を装って人々の注目を逸らすという手段を取ります。前述の自己顕示欲の強さにも共通してきますが、自己演出にのみ執心した能動的かつエゴイスティックな奇行といえるでしょう。

また明智は、劇場型犯罪を演劇作品になぞらえ「あなたがた警察は、大衆と一緒に客席から芝居を観ていたのである」「探偵は初めから、常に舞台の裏側を見ている」とも発言しています。舞台裏というのは普通「見せられている」ものではありませんから、明智は能動的に舞台裏を「見に行っている」と解釈するのが妥当でしょう。

以上の例から明智は、強い自我やこだわりを持ち、それに即して行動し、能動的に推理ゲームに参加している人物であることが窺え、それは「正義のヒーロー」の定義からは乖離している。明智は完全な「正義のヒーロー」にはなりきれなかった。

徹底してヒーローになりきれなかったからこそ、明智は「自己を超越できない」愚かな人間から抜け出せないままだった。人間が普遍的に持つ変身願望を体現するかのように顔も名前も意のままにし、死への恐怖にすら打ち勝ち、明智自身に「おそるべき悪魔」と言わしめた二十面相には敵わなかった。

呼ぶ名を「遠藤平吉」から「明智小五郎」にすり替えて、それ以外は冒頭と一言一句違わぬセリフを繰り返すラストシーン。二十面相を追いかけ、二十面相の歩いた道をなぞり、変装や影武者という同じような手段を用いて騙し合う、所詮は二番煎じにしかなれなかった明智を象徴しているのかもしれない。暗転の中木霊する笑い声は、そんな明智に向けられた嘲笑だったのかもしれないなぁ、と思いました。

 

明智や二十面相が物語上で死んでしまったとしても、読者が存在する限り、それぞれの読者が新たに明智や二十面相を生み出すことで、彼らは乱歩の手を離れ永久に生き続ける、それが読書という作業なのである」というような語りでこの作品は幕を閉じます。これこそがこの作品が「朗読劇」として舞台で表現された意味だと思います。身体表現を極力削ぎ落とし、特に視覚イメージに余白を持たせることで、観客一人一人がまったく異なる映像を思い描く。

この営みはアイドルに対しても同じことが言えるのではないかと思いました。(特にジャニーズの)アイドルとは、脈々と継承される歴史に裏打ちされた「物語」である。彼ら個人個人がステージで輝くための努力や苦悩、数多の先輩から受け継がれてきた伝統、仲間やライバルとの関係性、そしてそれらに自分の人生を託し、あるいは重ね合わせ、アイドルを自己の語りの中に組み込んで消費していく我々オタク──。これら全てが「物語」である。

しかしながら、人間の人生を物語として語り尽くすことは不可能である。我々がアイドルの「物語」として見ている部分は、彼らの長い長い人生のほんの短い期間のほんの一側面でしかない。一側面でしかないがゆえにそれは不完全で不安定で、綻びの生じやすいものかもしれない。でもだからこそ、その綻んだ糸口からオタク達が自由にそれぞれの「理想のアイドル」像を結び、偶像としての彼らを愛することができるのではないか、とわたしは考えています。それらはもはや人間そのものではなく、作品であり商品であるから、アイドルをやっている人間とは切り離され、彼らの支配の及ばぬ他者の世界へと枝分かれしていく。

だからやっぱり、この台本を読んだ上で『「理想像」と「自己像」を近付けられるように活動していく』などと言っている矢花くんのことが全然わからないな〜と思っています。彼自身のことはわからないながらも、そこに、品川ステラボールのステージの上に存在しているのか、していないのか、わたしが今認識しているのは明智小五郎なのか、二十面相なのか、はたまた別の何かなのか、そんな儚い存在を演じるのが、名前も立ち姿もスペックも2次元みたいなのに、どこか身近にいるような気がしてしまう、そんな彼であった意義は大いにあったということは確かだと感じました。こんな濃密な初主演舞台を経験した矢花くんの、今後の表現活動が楽しみで楽しみでなりません。(とは言いつつも次の芝居仕事がドリボなのマジやるせねえ〜〜〜〜〜)(未だにジャニーズ特有のハチャメチャ脚本に馴染めない人)

目と目で通じあう

連日低気圧で気が滅入っている。

気が滅入っているので、本来であればわたしは就職活動とかいうのをやらないといけない状況らしいのですが、その全てを放棄して、数日に一度気が向いたらアルバイトに出向き、適当にレジを打つなどしてここ最近を過ごしています。おそらく人生で2番目に廃人生活を送っている。

気が滅入っているので(2回目)、接客態度も酷いものである。わたしは要領が悪いので、褒められるべきところといえば接客態度くらいしかないのだが、最近は常に寝起きみたいなガスガスの声しか出ず、客と目を合わせることができなくなった。肉体運動でいえばほんの数十センチ目線を上にあげるだけなのに、なぜかそれができない。それさえもめんどくさい、しんどい。

しんどいが、頭はずっと回っている(だからしんどいのかもしれないが)。感想としてブログを1本まとめたもののやっぱり先々週のvol.6のブログがまだうまく飲み込めてなくて、そうこうしてるうちに追撃のように次のブログが更新されてしまって、感情に収集がつかなくなって、もうこうなるならいっそブログの更新をやめてくれ、と思ってしまったり、とてもじゃないけどここには書けないようなことをたくさん吐き連ねるのをフォロワーに聞いてもらったり。

 

レジを打ちながら、『目を合わせるということ』という本を思い出した。わたしが好きなもう一組のアイドルグループ・BiSHに所属するモモコグミカンパニーちゃんが初めて出版した本である。学業と並行してアイドル活動を続け、その経験を自身の卒業論文の題材にまでしたモモカンちゃんとBiSHの軌跡が語られている。BiSHというグループそのものに興味がなければ面白味は感じられないかもしれないが、とても素敵な本なので読んでみてほしい。そんな本のあとがきにこのような記述があった。

 自分から目を合わすことは簡単なことではありませんでした。それは自分の弱みをさらけだすことでもあって、人に弱みを見せることはわたしにとってすごく怖いことだったからです。(中略)でも、BiSHに入って人前に立つようになってからは、自分の弱みをさらけだすことは同じ弱みをもつ誰かを救うことでもあると気づきました。(中略)

 ステージに立つような人間と自分は違うと思うかもしれませんが、あなたもわたしも一人では生きていけない同じ人間で、きっとなんら変わりないと思います。

矢花くんの言葉やパフォーマンスに触れていると、こちらの瞳を覗き込まれているような気がすることがある。どうせわたしは有象無象のオタクの中の一部なのだから、そんなことが可能なのかどうかも怪しいところではあるが、それでもそう思わせられる引力を感じる瞬間がある。以前 I Know. - 7 MEN style - を見てくれたフォロワーが、「矢花黎は深淵なんだよ……!!!こちらが矢花黎を覗く時、矢花黎もまたこちらを見ているんだよ……!!!」と言っていたが、「くろ」とも読む「黎」の名も相まって、言い得て妙な表現だと思う。

以前好きだった人は本当に他人に興味がなくて、オタクのことなど見向きもしなくて、そういうところが好きだった。別に人外視してたわけじゃないけど、その人の才能と、好きだなと思うパーソナリティ(キャラクター、と表現した方が適切かもしれない)だけを、相手の感情を気にかけずに勝手に好き好き言うだけなのは、今思えば気楽でとても楽しかったし、それが「推し」とオタクの関係性として理想だと思っていた。むしろ人間として向き合おうとするから歪むのだと。

結果的にその理想もうまくいかなかったし、ちょうどうまくいかなくなった頃に矢花くんに出会って、ここ5年近くかけて積み上げた価値観と全然噛み合わなくなった。

 

モモカンちゃんはもう一冊エッセイを出版しているが、こちらはクラウドファンディングだったか何かでファンとリアルタイムでコメントを交わしながら執筆されたもので、巻末にファンからのコメントも併せて掲載されている(書いてて思ったけど、矢花くんはもしかしてこれと同じようなことをほぼ無賃で自発的にやろうとしている……???気が狂っている……)(ていうか今更だけどJohnny's webの月額料金ってどれくらいタレントの給料に反映されてるんだろう……)。その中の「アイドルと恋愛」の項目でこのような記述がある。

 現実の恋愛は一対一のコミュニケーションが必要だ。綺麗で居心地のいい自分だけの世界に浸り、頭の中で物語を進めるのもいいが、その間、現実では何も進むことはない。(中略)

 アイドルソングは一方的に"きみ"に対しての想いを歌っていることが大半で、曲の中の"きみ"は"わたし"の想いに対して自分の意見を述べることはめったにない。しかし、現実の実体を持った"きみ"と対等に関わるには一方通行ではなく、"きみ"の方からも自分に矢印が向くことが必要になる。(中略)

 現実の"きみ"と対面するには、もう二度と会えなくなってしまうかもしれない頭の中の"きみ"をぶち壊す勇気と、現実と向き合う覚悟が必要らしい。

この理屈に照らし合わせるなら、ラブソングを甘く切なく歌いこなせるどんなアイドルより、胸キュンセリフで黄色い歓声を浴びまくっているどんなアイドルより、矢花くんはよっぽど切実に、実感を持って、ファンと「恋愛」しようとしてくれている。さすがにここまで断言してしまうとそんなつもりはないと思われるだろうが(笑)、恋愛に等しいくらい密接な双方向の感情のやりとりは求めているんじゃないだろうか。いつかの雑誌でリア恋を自称していた理由がここでようやくわかったような気がする。

ただ、それでもし向こうが傷つくことがあるのなら、わたしは手放しで乗っかることはできない。わたしもできれば傷つきたくないし傷つけたくない。アイドルを推している以上は幸せでありたい。その覚悟があるのかどうかを計りかねている。とはいえ、彼の表現から彼の中の人間のドロドロした負の感情の存在は自明であるから、アイドルだからって綺麗事ばっか言ってるわけじゃないんだな、とも思ってる。でもそれにしては言動が眩しいくらいに澄み切っている時もあって、なんだかちぐはぐで、人間らしさとしてそういうネガティブな側面を見せられるほど、これ以上痛めつけられるようなことがあってはならない、守らなければ……みたいな気持ちにもなる。

皮肉にもアイドルから、人間に「人間」として向き合う方策を手取り足取り教えてもらっている気分になってきた。それが彼なりの優しさ誠実さだな、と感じる日もあれば、残酷だな、と感じて手を振りほどいてしまいたくなる日も少なくない。それでも、無理に「偶像」を演じるでなく、「人間」として、「人間」のまま、アイドルをやろうとしている矢花くんの願いが、できる限り叶えばいいなとは思っている。すっかりISLAND TVで見慣れてしまった雑然とした部屋の風景や、わたしも持ってる1500円のTシャツが羨ましいほど似合っている姿を思い出しながら。

 

 



 

偶像論とコミュニケーション

結局、「自己像と他者から求められる理想像は乖離している」ということに理解を示した上で、それでもなお両者を擦り合わせようと試みる理由がわからなくて恐ろしいな、とわたしは思ってしまった。

 

冒頭で言及されている通り、人としての素性がわからないから想像で補完した結果実情と食い違いが発生してしまうのは、別に相手がアイドルじゃなくたって、インターネットの世界じゃなくたって、毎日顔を合わせる家族友人同士の間でも起こっているわけで。それは「そういうもんなんだからどうしようもない」と開き直るしかない、みたいに思っている節ももちろんあるんだけど、必要だから存在しているともわたしは思っていて、こと相手が「アイドル」であったならば尚更、そのアイドルを守るために必要なのではないか、と思っている。

アイドルという職業は、途方もない数の人間から途方もない大きさの感情を一方的に向けられて、それをアイドル自身の人生に重ね合わせて消費される存在である。それはすごく残酷なことで、普通のひとりの人間がとてもじゃないけど背負いきれるものではないと思う。

だからこそオタクは、文字通り「偶像」として、アイドル本人や事務所などが商品として見せてくれる歌やダンスやお芝居やトークや綺麗なお顔などといった要素に、各々の欲する「理想のアイドル」を見出し、それを推すことになる。それはそのアイドル自身のパーソナリティと限りなく近いかもしれないが、血の通った生身の人間そのものではない。しかしそれによって、アイドルのプライベートや人権は(完全に、とは一部ヤラカシ等のせいで言い難いにせよ)ある程度守られている。アイドルオタクの何割が同様の思想を持っているかは知らないが、少なくともわたしはこうして割り切ることで、身勝手で暴力的ともいえるわたしの「好き」の感情から、好きなアイドルを守りたいと思っている。

余談だが、こういうことを考えている時、「アイドリッシュセブン」屈指の名セリフ「アイドルを苦しめるのはいつだって、好きの感情なんだよ」を思い出す。

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(「アイドリッシュセブン」第2部 第4章4話「無限の期待」より抜粋)

ここでも語られている通り、オタクの持つ「理想像」とアイドル自身が見せたい「自己像」を一致させるというのは土台不可能なのである。

 

重箱の隅を突くようで本当に申し訳ないが、「これからも『理想像』と『自己像』を近付けられるように活動してい」くという確かな宣誓に対して、このブログそのものが不完全であるように思う。このブログそのものの解釈の余地が大きすぎるからである。

なぜこの宣誓の通りに考えるに至ったか、そこに至ったきっかけは何だったのか、確信的な部分は仄めかす程度に留まっている。意図的に言及を避け、はぐらかした、と読み取れなくもない(ブログに何をどこまで書くかは彼の自由なので、意図的であろうがなかろうが別にそれを咎める意図は一切ない)。フォロワーにもこのブログを読んでもらったが、「聞いてもない色んなことを教えてくる割にせきぐもさんが一番知りたいことは教えてくれてない気がする」と言われた。

そして、「『理想像』と『自己像』を近付け」させるための方策として、「なるべくナチュラルな面の僕をみなさんの前で見せ」る、とあるが、これだって「オタクの理想像に寄り添う自己像を恣意的に見せていく」のか、「オタクが勝手に抱く理想像など知ったことではない、俺の見せる自我をそのまま受け止めろ」ということなのか判断しづらい。今のはかなり極端に書いたが実際はもっとグラデーションで、前者は自身と乖離したオタクの理想像を本人が知ることで、無意識のうちにそれに即した言動を取りがちになってしまう、くらいのことはあるかもしれないし、後者は我々オタク側の意識改革に依拠するところであるから、そもそも発信する側1人の宣誓でどうこうできる問題ではないように思う。

こうして想像の余地を──むしろ意図的にすら見えるほどにあからさまに──残したまま我々オタクに言葉を届けることで、オタク1人1人の中でまた沢山の「矢花黎の理想像」が生み出され、実像とはズレていく事態になることは考えているのだろうか?

数週間前からずっと謎の圧をもってしてオタクもブログ書けって呼びかけているのも、要はコミュニケーションを図りたいのだとわたしは思っているんだけど、コミュニケーションってそもそも両者の想像や期待に依存した歪なものだし、理想像と自己像の乖離を受け入れるのを拒否しながらもコミュニケーションは取りたがるのは、そういう意味でもダブルスタンダードだな〜と思う。

 

気になる点を列挙するとどうしても批判的な文面になりがちだが、わたしは別に彼を責め立てたいわけじゃない。傷つけたくもない。先ほど「好きなアイドルを守りたい」と書いたが、それと同じくらい「好きなアイドルが望むことは可能な限り全部叶ってほしい」「好きなアイドルが想定するような『良いオタク』でありたい」という気持ちは強い。ただ、矢花くんと真摯に向き合おうとすればするほど、その願いがどんどん叶わなくなっていくような気がしてならない。本当にこれが真摯な向き合い方なのかどうかもよくわからない。

でもわからないなりに考えるのもこれはこれで楽しい(側から見たらなぜかめちゃくちゃ苦しんでるように見えるらしいが)し、向こうが何かこちらから発信することを求めてくれているのであれば、こうやって思想を言葉にすることは諦めなくてもいいのかな、わたしは許されているのかな、と勝手に思う。