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なにも知りません

演じることとは生きること──龍宮城 SPRING TOUR 2024 -DEEP WAVE- 感想

 

年度跨ぎのバタバタする時期ではありましたが、演者もオタクも本当にお疲れ様でした。

 

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また物販に必死すぎてまともな写真が撮れなかった

 

よかったところを語りだすとキリがないほどありますが、本エントリは最新EP『DEEP WAVE』収録曲と、本編中に散りばめられた演劇的な要素に特にフォーカスを当てた感想文になりました。そのため、各メンバーへの言及にものすごい偏りがあることご容赦ください。

 

ふたつの『BOYFRIEND』

Zeppで開催されるライブ公演としては珍しく、開場時点ではステージが幕で完全に隠されている。その幕が中央から開き、淡い桃色の照明が後光のように差し、既にステージ上でポーズを取ったメンバー6人の姿が現れるところから公演は始まる。ただ1人、KENTさんだけがステージ上手後方の紗幕をくぐり抜けて登場し、始まる1曲目はツアータイトルでもある『DEEP WAVE』……ではなく、初披露となる彼のソロ曲『BOYFRIEND』である。

ライブ終盤も最後の曲を歌い切ると、1人ずつ何かに導かれるように紗幕の向こうへ姿を消し、1人ステージに残ったKEIGOさんが意味ありげに客席を見つめる中、幕が閉じられて公演が終わる。アンコールもない。

アイドルグループやアーティストのライブ演出として、演劇の要素を取り入れることは今日日珍しいことでもないが、彼らが、アヴちゃん先生が何を伝えたかったのか汲み取らんとした時、そこに何かしらの明確な意図を見出さざるを得ない。


アヴちゃん先生は、のちに彼らが背負うことになる『オルタナティブ歌謡舞踊集団』という肩書きを以下のように解説する。

「(前略)昭和にある音楽っていうのが『歌謡』とされることが多いなと思ってます。ただ、私の解釈が入ると、曲の世界をとても大事にしている音楽、曲の世界に入っていく音楽を『歌謡』と、私は思っています。」

「『舞踊』と聞くと何か浮かぶ人いますか?(中略)調べてもらうと『踊ること』くらいしか出てこないんですよ。だけど、(中略)やっぱただ踊るだけじゃない。舞って踊ってストーリーを、世界を伝えるっていうことで『歌謡舞踊』とさせて頂きました。」

──『0年0組』第1話より


楽曲の世界観に没入し、楽曲の持つ物語へと聴き手を引き込む表現を追求することこそ、彼らが課された至上の使命であることは明らかである。それは言い換えればつまり、何かを≪演じる≫ことで、龍宮城がただ"歌って踊って観客を楽しませるボーイズグループ"に留まらない、深みのある表現を追い求める集団であり続けるということであり、そうあり続けること自体が、龍宮城を龍宮城たらしめ、彼らが真に我々に訴えかけたい想いやメッセージが浮かび上がってくるのではないだろうか。

1曲目に歌われた『BOYFRIEND』は、タイトル通りボーイフレンドとの関係性に悩み苦しむ主人公を描いた、龍宮城の楽曲の中でも珍しくストーリー性の高いラヴソングである。たしかに龍宮城の楽曲の中でも特に確立された世界観を感じさせる楽曲であるが、この楽曲をリード曲を差し置いてまでライブの冒頭に持ってきたのはやはり、今から始まるライブでは誰か、何かを≪演じる≫ことで伝えたいことがあるのだ、という意思表示のように感じられる。

『BOYFRIEND』という楽曲に対して、アヴちゃん先生は次のようにコメントを寄せている。


『誰かの叫びを己としても叫ぶこと』

表現者の本分には、小手先の演技では足りない。

それではリアルが救われない。


自分ではない誰かに成り代わることによって、自分の心に湧き上がる感情を表に具現化させること。それはきっと、見聞きした観客の心にも第四の壁を超えて共鳴し、言葉以上に深い次元で「リアル」な感情を震わせるだろう。昨年メンバー全員がドラマ・舞台と俳優業を経たうえで、本物の表現者となるべくさらにもう一段階、複雑で繊細な表現を彼らが会得するための"課題"として、これらの演出が施されたのかもしれない。

今回の公演の『BOYFRIEND』にはもう一つギミックが仕掛けられている。ライブも終盤に差し掛かった頃、今度はボーカルがKENTさんから冨田さんに代わって同曲が披露される。

冨田さんといえば、『0年0組』序盤で憧れのアイドルをトレースしすぎていることを先生に指摘され、表現の芯となる自分だけの"ヤバさ"を確立することに特に苦心していたメンバーの1人である。がしかし、デビュー決定以降の彼は、メンバー内でも頭ひとつ抜きん出た伸びしろを見せ続け、ステージに立つたびにファンを騒然とさせている。わたしが彼の底知れなさを明確に意識し始めたのは、音楽劇『秘密を持った少年たち』での鬼気迫る演技を観てからなのは確かである。

"憑依型"などと言ってしまえば陳腐だが、穏やかに微笑んでファンサを振りまいていた優しい彼からは想像もつかない見事な豹変ぶりだった。物語終盤で仲間にやむを得ず見捨てられたことにショックを受け、自暴自棄になって仲間を襲いまくるダークホースを見事に演じ切っていた(公式で映像がほとんど残されていないのが本当に惜しい)。

音楽劇以降のライブでは、雄々しいシャウトを生かしてラップパートや煽りを担当する機会が明確に増えた。芝居で培った経験が、表現者としても着実に実を結んでいるのが、客席から見ても手に取るようにわかって喜ばしい限りである。

『BOYFRIEND』においてもその高い演技力は健在で、表情をくるくると変えながら、歌いながら手振りを歌詞に合わせてみたり、歌詞の一部を台詞のように語りかけてみたり、1本の映画のように生き生きと、かつ切実に、繊細に歌い上げられていた。曲のラストにはKENTさんがボーイフレンド役として主人公の冨田さんを引き留め、歌詞の通り冨田さんがそれを突き飛ばして拒絶するという一幕が追加されており、むしろ本家のKENTさん以上にドラマティックなパフォーマンスに仕上がっていた。

結果として楽曲選抜オーディションに勝ち抜き音源化が叶ったのはKENTさんであったが、それと対をなす存在感でこの物語を豊かに表現できるのは、確かに冨田さん以外にいないと思わされた。『0年0組』での昭和歌謡ボーカル試験ではライバルとして同じ曲でしのぎを削った2人であり、またその課題曲がREBECCA『フレンズ』であったことにも、必然めいたものを感じざるを得ない。

これまでの公演ではソロ・ユニット曲の別メンバーカバーは聴き比べるかのように本家と立て続けに披露されることが多かったが、『BOYFRIEND』はそれぞれセトリ1曲目と終盤のクライマックスと、セットリストにおいて特に重要な場面に独立して配置されていることからも、公演全体を通してもこの曲が重要なファクターであることが窺える。


さて、このような演劇的技巧を通して、彼らが今回のツアーで真に伝えたかったこととは果たして何なのか。

 

 


『DEEP WAVE』という楽曲について

龍宮城のこれまでの楽曲は、好き勝手に口出ししてくる有象無象を突き放し、己と向き合い、闘い、真に強く"孤高"であることを歌うものが多かったように思う。

 

見たことないのによく言えちゃうね

──『Mr.FORTUNE』より

 

この世界 自分に打ち勝ってこ

「代わりはいるよ」なんて 考えられない!


ぴかぴか 光るのは超ロンリーオンリー

──『2 MUCH』より

 

振り切り上げて見えるもの どうしても消えない傷跡を

誇れば強くなれば昇る朝日は来る いますぐ勝負!


ベガ立ち決め込む ギャラリーマジ参観日

 

やりに行かない奴が言うなし

──『SHORYU(→↓↘️+P)より


オルタナティブ歌謡舞踊集団」を標榜し、オーディション番組という壮絶な闘いを生き残った彼らが歌に込めるメッセージとして、これほどまでに説得力のあるものは確かにない。「全員許さない」という怒りを原動力にバンドを立ち上げ、走り続けてきたアヴちゃん先生の思想の延長としても一貫性がある。ライブでは持てるエネルギーすべてをステージに叩きつけて帰るんじゃないかと思うほど気迫溢れるパフォーマンスを受け止めるのにいつも必死だし、日常を生きる中でもここぞという局面で本当に心の支えになってもらっている。

がしかし、わたしもメンバーもただの人間であり、常に闘争状態にはいられない。グループの持続可能性を顧れば、がむしゃらに死力を尽くすことで表現できる"ヤバさ"だけでは、今後どこかでガス欠を起こすことは避けられない。

今回のツアーに合わせてリリースされたEPのリード曲『DEEP WAVE』はタイトルの通り、気まぐれな波のように変化するBPMと、静かで豊かな深海を目指して水中を深く深く潜るようなサウンドが心地よい独特の楽曲である。音楽的な評論はその道の人に任せるとして、歌詞やパフォーマンス含め楽曲全体が纏う空気感が持つメッセージには、「今、この瞬間に己のすべてを懸ける"動"の覚悟」を歌うこれまでの楽曲群とは一線を画す、「未来をまなざして泥臭く"今"を積み立てる、どこか諦念めいた地に足のついた"静"の覚悟」と、「他者との出会いと別れへの前向きな願い、希望」が込められているように感じる。

ボーイズグループは永遠ではない。当たり前の事実だが、ここ数年の世の中は特に、彼らがこれからも変わらない姿でステージに現れてくれることをどこか当然のように信じてしまっている自分にはっとさせられるトピックが多かったように思う。龍宮城も、下世話な言い方をすれば「流行りのサバイバルオーディション番組から生まれたセンセーショナルなグループ」のひとつに過ぎないのだからなおさら例外ではなく、今の勢いのままどこまで走り続けられるか、誰にもわからない。わたしは、万一の時に受けるショックを最小限にするために、あまりグループの方向性や将来について詳細な期待を抱くことをどこか避けていたところがある。

『DEEP WAVE』を聴くと、わたしが想像していたよりもはるかに現実的・長期的に、かつ前向きに、彼らとアヴちゃん先生がグループの持続可能性を見据えていることが窺い知れる。ひとたび留まればみるみるうちに腐っていく濁流の中を、明るく呼吸のしやすい水面に背を向けて、ライフワークとして泳ぎ続けていく覚悟。一世一代の大勝負に懸けるときとはまた違う、静かな覚悟。

期待通りになんて

いつも通りにだって

来る約束もない

それでいい

メンバー全員にとって、必ずしも思い描いた通りのたどり着きたかった場所ではないと思う。完璧に居心地がいいものでもないと思う。でもそれは、スケールの大小はあれど、息苦しい仕事、学校、社会でなんとか豊かに生き永らえようとする我々もきっと同じ。

『DEEP WAVE』に希望の明るさを感じるのは、孤独にもがき苦しむ間に、同じように濁流を彷徨う誰かと出会い、別れゆくことをささやかに祝福しているように感じるからだと思う。そしてその祝福を通して、孤高の表現者だった彼らが、我々観客ともやさしく目を合わせてくれているような気がするのだ。

 

角を曲がり続けて気づいたらここへ戻ってきていた!

──Rayさんポエムパートより

濁流の中では前も後ろもわからない。自分の今の進行方向が正解なのかもわからない。がむしゃらに進んでいるつもりになって、同じところを周遊しているだけだったことも往々にしてある。戻ってきたとて、あの頃の景色も人々も、めくるめく濁流に押し流されてすっかり変わってしまっているかもしれない。次にその場所で手を繋ぐ相手は、以前とは違う人物かもしれない。その様子はまさに輪舞のようであり、『0年0組』で経験した出会いと別れを歌った『RONDO』に重なる*1。デビューメンバー決定からちょうど1年を控えたこのタイミングでこの曲がリリースされたことにも、大きな意味があるのだろうと思う。

 

溺れず潜り合い 沈まずに見つけたよ きみを

春空さんがそのふくよかな歌声で力強く抱きしめてくれるかのように歌い上げるパートだが、ライブでは春空さんをリフトするRayさんとSさんが、満面の笑顔でアイコンタクトを交わしていたのも象徴的なシーンだった。


繰り返すようだが、表現、ステージという化け物に身一つで飛び込み、死に物狂いで闘ってきたこの一年の彼らは本当にかっこよかった。その姿がどれだけ人智を超えた手の届かない存在に見えても、その原点に、悩み、怒り、焦り、傷つきながらも、言葉を尽くして仲間とわかり合い、そんな仲間を涙を流して見送ってきた心優しい少年たちが息づいていることを、『0年0組』を見てきた我々は知っている。そんな彼らの真心が、小川が海に流れ出し、領海を押し拡げていくように、わたしたちにも並々と注がれてゆくような、そんな公演だった。幕を1枚隔てた先のステージで"演じられる"からこそ、かえってわたしたちに開かれているような印象を受けたのが不思議な感覚だった。

 

 

 

『LATE SHOW』──楽曲の意味を編み直す

同様の印象を受けた、というより、それまでの楽曲のイメージが180度変わったと感じたのは、中盤に披露された『LATE SHOW』だった。この曲は音楽劇『秘密を持った少年たち』のライブパートで初めて披露された楽曲であり、劇中で彼らが演じた404 not foundのメンバーや、霞ヶ丘高校映画研究会の生徒たちを思わせる歌詞やセリフが随所に織り込まれている。がしかし、楽曲コメントにもあるように、我らがアヴちゃん先生が、劇中曲だからとただのキャラソンを作るわけがない*2


メンバー全員がそれぞれ2人の役柄を纏って歌う音楽劇では、EDM調のノリの良いサウンドの楽曲であるにもかかわらず、日の下を追われ、夜行*3として夜の世界に身を隠して生きることを余儀なくされた404 not foundの、夜の学校という閉鎖空間で、なす術なく仲間と引き裂かれていく霞ヶ丘高校映画研究会の、未練とやるせなさが漂っていた。

今回のツアーでは、『JAPANESE PSYCHO』を歌い上げたKEIGOさんがその熱そのままに語り出すところからこの曲は始まる。この語りはわたしが聞いた限りでも公演ごとに内容が大幅に異なっていたため、台本があるわけではなくKEIGOさんがその瞬間瞬間に感じたことをそのまま言葉にぶつけているようであった(すごい)。朧げな記憶ではあるが、どの公演でも「努力は必ず無駄にはならない」「何かを始めるのに遅すぎることなんてない」といった、素直で前向きなメッセージの数々が込められていた。

その中でも特に印象的だったフレーズがある。


「ほんの少しの勇気があれば、龍宮城は隣を走り続けます」


この言葉は2月のFCライブ『JAPANESE PSYCHO』のMCでも聞いた(はず)。ツアーのコンセプトに留まらず、今のKEIGOさんの、龍宮城のアーティスト活動のポリシーであるのだろうか。観客にただの受け身な傍観者のままでいることを許さず、エンターテイメントの大海をともに泳いで楽しもうという、なんとも心ときめくいざないだ。ここにも、彼らの創り上げる世界に惚れ込んで、そこに没入するオーディエンスを必ず抱き留めんとする彼らの優しさが垣間見える。

そしてこの頼もしい誘いは、もちろん彼らのライブ空間でだけ有効なわけではなく、これからもありふれた日常を生き抜いていくお守りになる。

物語の中で虚しく散る、彼らへのレクイエムとして歌われた昨秋の音楽劇では、叶わぬ願いが虚しく散ってゆく悲痛さが、そのまま音になったように叫ばれた『いつかいつかいつしかいつも』。それらも、まさに今現実世界で逞しく生を更新し続けている龍宮城のメンバーが歌えばこんなにも強かで、本当の本当に『叶う気がして』くる。たらればではない彼らの覚悟が、血潮みなぎる熱い掌で背中を強く叩いてくれるかのように、今日を生き抜くための気力をわたしたちに与えてくれる。わたしたちの日々の隣に寄り添ってくれる。そんな眩しいほどにまっすぐな、龍宮城なりのエールソングとして、彼ら自身の手によって楽曲の持つ意味がどんどん編み直されてゆくのは、全員が1曲1曲に真剣に向き合い続けていることの何よりの証左だと思う。

どこを探しても見つからないよな

ぼくらの映画が見たいから!

人生は映画や演劇などの演じることに喩えられることが多い。公演全体の演劇のような演出も相まって、「自分たちはこれからもこうして生きていくのだ」という決意表明の想いが、これまで以上に強く込められた公演だったのではないだろうかと感じる。ありきたりな喩えかもしれないけど、それが一切薄っぺらく見えないのは、彼らが1年かけて磨き上げてきた豊かな表現力の賜物以外のなにものでもないし、感情の鮮度を保ったままわたしの元まで素直に届くのは、彼らがどこまでもひたむきで誠実で、味付けの濃いプロデュースにかき消されない強固な意志の力で能動的に表現活動に取り組んでいるだからだ。そしてその決意がこんなにもワクワクする予感に満ち溢れていることがとても嬉しくて、これからも末永く彼らが生み出す世界とともに生きていきたいと心の底から思う。年度の切り替わる節目、そしてデビュー2年目を控えた今こそ、観る価値のある公演であったと強く感じる。

 

 

 

*1:空中(水中)を浮遊するKENTさんや、ソロアーティスト写真に使われているパイプ椅子など、MV、アートワークにも『RONDO』のセルフオマージュと思われるモチーフが散りばめられている

*2:アヴちゃん「(前略)アニメのタイアップが続いているアーティストっているじゃないですか。その一組として見られることに対して覚悟は決まってるけど、私たちは中身がパンパンに詰まっていて、アニメから一歩足が出ていざライヴとなっても、とても強い曲を書いてきた自負があるんです。」

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*3:劇中に登場する、人間を襲い吸血するヴァンパイアのような存在。不老長命だが日光に当たると灰になって死ぬ。