コピー用紙

なにも知りません

救済と存在肯定の間で

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現場で矢花くんを目にするたびに、「あぁ、思ってるより"普通の"男の子だなぁ……」と感じる。

別になんかガッカリしてるとか、他意があるとかそういうわけではなく、ただ純粋な「存在」を感じるというか、あぁ、「居る」なぁ……と思う。言語化が難しいが、この感覚は意外と大事なんじゃないか、忘れないでいた方がいいんじゃないかと最近は思うようになってきた。自己像と理想像を擦り合わせたいなどと言う矢花くんのことだから、尚更……(いつまでそのブログの話引きずってるんですか?)

先日のサマステライブも割とそう思いながら見ていた。純粋にライブとしての楽しさが圧倒的に勝っていて、思っていた時間こそ短かったが。ソロコーナーで夕暮れ時のようなオレンジの照明をバックに、ギター1本担いで上手に立つ矢花くんを見ながら「あーーー……『矢花くん』だなぁ……」とぼんやりと思っていた。ほかの曲ではだいたい暴れてました(隣の嶺亜担のお姉さん本当にすみませんでした)。どちらも幸せな時間でした。

 

サマステ公演中になにわ男子のデビュー発表があり、それに触発されてデビューへの決意を新たにしていたのは7 MEN 侍とそのファンも例外ではなかったようで。それはジャニーズ事務所に身を置く以上仕方ないことなのは理解しつつも、あの事務所における「デビュー」のシステムや価値に未だ懐疑的なわたしは、その風潮に大手を振って乗っかることができずにいる。数字や流行に左右されないで、自分たちにしかない武器で自分たちの表現を真摯に突き詰めようとしている7 MEN 侍の姿勢がすごく好きだ。「デビュー」がそっくりそのまま「彼らの音楽CDが発売される」ことだけを意味するのならこんなに嬉しいことはないが、そのために彼らが本当にやりたいことを一部でも諦めなければならないのだとしたら、そんな「デビュー」に何の価値があると言うのだろうか。

自我を持ったアイドルが好きだ。自我を持ったアイドルが、その自我と大衆にまなざされることによってその存在を可能にする「偶像」としての在り方の狭間で、それでもどうにか自分を表現しようと、自分はここにいるのだと声をあげようともがき続けているのが、とても泥臭くて美しいと思う。以前別の好きなアイドルの事務所の社長が、「自己を抑圧して抑圧してそれでもはみ出てしまうのが個性」というようなことを言っていて、その意味が最近になって少しわかってきた。

「多くの人を笑顔にできるように」「ファンの皆さんの応援に応えられるように」、そういう奉仕精神を持ってアイドルをやっている人たちも本当に素晴らしいと思う。でもわたしは、人のために己を躊躇なく犠牲にできるような高尚な人に見合うだけの「応援」をしてはいないので、こういうアイドルを見ていると申し訳なくなってしまう。

いわゆる「推し」と呼ばれる立場の人に対して「応援してる」って言えない。これは今に始まったことではなく数年間ずっとそう。すごく恩着せがましい感じがする。わたしは自分が見たい・聴きたいものを得るために一方的に金を払っているだけ、という意識が強い半分、意図的にそう意識するようにしている半分。

以前好きだった人にも初めは同じように思っていたけど、今思えば月日と経験を重ねるごとにどんどん傲慢になっていって、最終的には完全にそれが裏目に出て離れてしまったような気がする。「これだけ『応援』してきてやったのに」──……。そうなるのが怖いからより「応援」という言葉が恐ろしくなったというのもある。ジャニーズJr.のオタクなんて「応援」して、「応援」の快楽に酔ってなんぼだろうに。

「自担」もこれに近い理由で呼べない。わたしは彼の何も「担当」してないし、彼もわたしの何かを「担当」してもらってるつもりはない。できるだけ「好きなアイドル」と呼ぶようにしている。長いから何か他にいい呼び方があるといいんですけど。

とにかくわたしはわたしの「応援」の最終的な責任を自分で引き受けられない。「応援」などと言い訳して彼らに自分の努力を身勝手に背負わせたくない。彼らが「応援」──具体的に言えば、グッズの売り上げや、YouTubeの再生回数や、SNSの拡散力といった、彼らが商業的に利益をもたらす根拠となる数字──を必要としていることは理解はしている。綺麗事かもしれないが、よりよいものを生み出し続けていればそれに見合った数字は後から勝手についてくると思うし、そもそもその数字が信憑性のあるものなのか、彼らの魅力は果たしてその数字で正しく評価されているのかは、消費者の立場として冷静に吟味していかないといけないと思う。数字をあげることに心血を注いでいるオタクは別に好きにしたらいいと思うし、それはそれですごいことだと思ってるけど、手放しで純粋に「彼らのために」と盲信的に数字を上げようとしているオタクを見ると「危ういな」と思う。

そういう思想のオタクなので、ブログで連日「応援してください」と言われるのは、正直ちょっと苦しかった。わたしのような考え方は彼らの邪魔にしかならないのかもしれない。わたしのようなオタクは客として認められないのかもしれない。嶺亜さんなんかは「(手段は)何でも良い」と言ってくれていて、すごく彼の優しさとフォロースキルとこれまでのキャリアの長さを感じられたけど、それでも。

そんな中で唯一、「古い常識を常に疑いアップデートしていく」ことと、「大きな組織や枠組みの中で相対的に形作られるのではない、あるがままの自分」とを表明してくれた矢花くんは、わたしのようなオタクにとってすごく救いだったし、矢花くんが矢花くんである所以がここに全て詰まっていると思った。

初回のブログで触れたように、「ジャニーズの異端児」と称されることに安堵している様子に「よかったね」と思いつつも違和感もあって、君たちはそんなところに収まるタマじゃないだろ!?!?みたいな謎の期待を抱いている節もあって、他のメンバーが「この世界でてっぺんを獲りたい」と言う中でもまず「等身大の自分」の存在を主張してくれたことが嬉しかったし、なおさらそんな彼のことは競争社会の数字なんかで測れるものではないと思う。そうは言っても歴史が長くしがらみの多い大手事務所に所属していることには変わりはないので、ストレートに発信できることに限りはあるのだろうが、その片鱗を感じられただけでも嬉しかった。

あとシンプルに現役のジャニーズJr.が「古い常識をアップデートしていく、そういう時代になっている」と明言しているのがシンプルに衝撃だった。そんなことを言われたらまた信頼してしまう。別にわたしの思索なぞ向こうは知ったこっちゃないだろうけど、わたしまで存在を認められた気持ちになってしまった。矢花くんはわたしのようなファンと呼べるのか怪しい存在ですら置いて行ってはくれないんだ、その優しさが眩しくて美しくて愛おしくて痛くて苦しい。

サマステの「ここに」サビ前の「ここにいる!」でまっすぐ前に手を差し伸べた矢花くんを、幸か不幸か真正面で目の当たりにしてしまった瞬間がずっと頭から離れずにいる。わたしもあるがままのアイドル・矢花黎くんの存在をできる限りで認識できるようにありたいと思うし、そのための「応援」……とまではいかずともわたしなりの「努力」はしてみてもいいかもしれないな、と思わせてくれる。「僕の世界を広げる」ため、「新しい世界を見せ」るため。なんて優しい言葉選びだろうと思った。どちらかと言えば新しい世界をお見せいただいてるのは私の方だと思うが、これからも新しい君をたくさん見せてくれたら、わたしは変わらずそれを元手に勝手にいろいろ考えると思うので、そういう感じでお願いします(?)。

ひとまずは、新しく「21歳」の肩書きを得た君を見て、嬉しいなぁ、愛しいなぁ、と思えていることの喜びを噛み締めています。お誕生日おめでとうございました。